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カテゴリ:鈴木藤三郎
二宮先生語録巻の3
【221】仏教の経典(観音経:妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25)にいう。 「具一切功徳。慈眼視衆生。福寿海無量、是故応頂礼」と。 何を「具一切功徳(一切の功徳を具える)」というのか。 天地の間に生ずる者は、皆な動功の徳を具えているのがこれである。 これを身体の理にたとえれば、物をとるには必ず手が有る。路を行くには必ず足が有る。あるいは縄をない、あるいはワラジを作る。これをこれ一切の功徳を具うというのだ。 何を「慈眼視衆生(慈しみの眼で生きとし生ける者を視る)」というのか。 日月が世界を照らすこと、これである。 これを世間の事にたとえれば、縄やワラジを売る者が衆生。そしてこれを買う者が観音菩薩である。これを買うや、必ず良い品か悪い品か、精密か粗雑かを論ずる。そして値(あたい)を払う。これを慈眼衆生を視るというのだ。 何を「福寿海無量(福と寿の海は量ることができない)」というか。 田畑は百穀が生じ、山や海は鳥や獣、虫や魚、草や木を生ずる、これである。 これを生業にたとえれば縄1房をなえば、値(あたい)4銭を得る。2房をなえば、8銭を得る。田を1段耕せば、米が1石がとれ、2段を耕せば、2石がとれる。 これを売ると、必ずこれを買う者が有る。これを福寿海量り無しというのだ。 観音の功徳はこのようである。誰か礼拝しないものがあろうか。このゆえにまさに頂礼(ちょうらい)すべしというのだ。 『報徳産業革命の人』p.97-98 38 藤三郎の観音信仰 「お父さん、観音経では、どこが一番ありがたいと思いますか?」 「それは観世音菩薩が、仏身を以て得度すべき者には、即ち仏身を現じて為に説法し、童男童女を以て得度すべき者には、童男童女を現じて説法するというように、あらゆる相手の要求に広現してこれを済度する無礙自在身を持っていられるところだナ。」 藤三郎は、実生活上では二宮尊徳の報徳の教えを基礎としていたが、精神生活上では観世音菩薩を深く信仰していた。毎朝、冷水浴をしたあと、仏前に向かって観音経1巻を読誦することは、東京へ移転してから、どんな朝でも欠かしたことがなかった。 藤三郎が観音を信仰するようになったのは、家の宗旨が、観音経(妙法蓮華経)を重んずる禅宗であったということにもよるが、そのほかに二宮尊徳が、また観世音菩薩を信仰していたことということにも、影響されたものである。 「報徳記」に、尊徳が、まだ14歳の金次郎のころ、隣村の飯泉村の観音堂に参拝した時、行脚の僧がやって来て、堂前にすわって読経した。その経を聞いていると、金次郎はなぜか歓喜に堪えない気持になった。それで、読経が終って、その坊さんに、 「いまのお経は、何経ですか?」 と問うたところ、 「これは、観音経です」 と答えた。 「観音経なら今までたびたび聞きましたが、今のように分ったことはありませんが・・」 「普通呉音で読むので意味が分らないのが、国音で訓読したから分ったのでしょう」 と坊さんはいった。金次郎は、懐中を探って銭200文を取り出し、 「これを、お供えしますから、今のお経を、もう一度読んで聞かせ下さい。」 と頼んで、ふたたび聞いてすっかり観音の信仰を得た、御仏の願いも衆生を救助することだ、と悟ったと書いてある。藤三郎が読んでいたのも、ヤハリ訓読した観音経であった。 明治34年(1901)に、藤三郎は鈴木鉄工部で、観世音菩薩の銅像を4体鋳造させた。この原型は大熊氏広氏の作ったもので、御身の丈は1丈にあまり、眉間の白亳亳は藤三郎の金のカウス・ボタンを鋳潰して入れた。一体は郷里森町の菩提寺のある庵山に、一体は養母やすの隠棲する鎌倉の別荘に、一体は日本精製糖会社裏の本邸の庭に、あと一体は明治35年(1902)8月15日に台湾の橋仔頭工場の構内に建立した。 森町の庵山へ建てたのは、実母ちえの7回忌追福のためであった。当時の曹洞宗の管長西有穆山が、 福寿界無量の功徳有難や 母の為とて建てし御仏 という御詠歌を作って、福寿観音と称して、今でも同地方の霊場の一つになっている。 台湾の橋仔頭工場への一体は、当時、マラリアや土匪の襲来で、常に不安の念に襲われていた工場員や家族達に信仰の対象を与え、観音の妙智力で守護していただくことはもとよりであるが、なお新領土の民にも、加護を垂れ給えという祈りがこめられていた。それから百年、この観音像は、現在でも同地の信仰の中心になっている。 💛2011年6月10日、鈴木藤三郎の足跡を求めて台湾橋頭に来た三人衆は利純英氏と一緒に観音経を読んで高雄の黒銅観世音に礼拝した。 6月12日、利先生はわたくしにメールをくださり、それにはワードでの文章が添付されていたが、その一節にはこう書かれていた。 「さて、私は子供の頃からすべての宗教を聴いて来ましたが、残念ながら未だにこれと思った宗教には参加しておりません。その日私は始めて観音菩薩に手をあわせ拝みました。それというのは、その日貴殿が真心こめて一心ふらんにお教を読んでいる姿を見て、・・・・・・観音菩薩の縁があったのではないかと思うようになり、本当に感謝感激しております。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月09日 20時31分25秒
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