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カテゴリ:遠州の報徳運動
「三遠農学社―遠州・三河の報徳運動第二集」目次
Ⅰ 概説三遠農学社 (資料編) 一 訳注「静岡県報徳社事蹟」(遠州地方)・・・ 2 (一)二宮尊徳小伝 ・・・・・・・・ 4 (二)報徳の起源 ・・・・・・・・ 12 (三)報徳の大意 ・・・・・・・・ 13 (四)安居院庄七の伝 ・・・・・・・・ 15 (五)静岡県における報徳の沿革 ・・・・・・ 24 (六)遠江国報徳社 ・・・・・・・・ 25 (七)報徳遠譲社 ・・・・・・・・ 34 (八)報 本 社 ・・・・・・・・ 42 二 三遠農学社と松島授三郎・松嶋吉平(十湖) (一)三遠農学社と報徳農業道 ・・・ 133 (二)松島授三郎小伝 ・・・・ 137 (三)翁の余徳 (四) 三 三河国報徳社 (一)山吉田の報徳(「鳳来町誌」)・・・・ 141 「遠州・三河の報徳運動」年譜 ・・・・ 143 コラム 遠州報徳・師父の風景 安居院庄七(22 23)、荒井由蔵(31 32)、名倉太郎馬(33)、福山滝助(65 66)、岡田佐平治(86)、報徳三兄弟(93 103)、中村譲庵(105) 三遠農学社・師父の風景・・・ 主要参考文献 『二宮尊徳全集』、『静岡県報徳社事蹟』、『報徳』(明治三五年創刊の大日本報徳社機関誌)、『日本報徳運動雑誌集成』、『図説森町史』、『報徳運動100年のあゆみ』、『山中家盛衰記』山中眞喜夫、『遠州報徳の夜明け』、『遠州報徳主義の成立』海野福寿、『安居院義道 報徳開拓者』鷲山恭平、『福山滝助翁』小田原市城内国民学校編、『福山先生一代記』金井利太郎、『岡田無息軒翁一代記』岡田良一郎、『小野江善六翁小伝』神村直三郎、『伊藤七郎平翁』鷲山恭平、 本資料集は平成二八年一二月一七日袋井市開催の報徳講座(戸田孝氏企画)の講演テキスト「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」の続編である。読みやすさを重視し、漢字は原則新漢字に改め、原文のカタカナをひらがなに改め、史料はできるだけ現代語訳化した。(令和三年一二月) 一 訳注「静岡県報徳社事蹟」(遠州地方分)抜粋 ○明治後半の静岡県の遠州地方の報徳運動について 静岡県地方における報徳運動を記した文書に「静岡県報徳社事蹟」がある。「事蹟」の「緒言」に「明治三九年一月静岡県事務官 丸山熊男」とある。公的な機関が静岡県内の報徳社から提出された資料をもとにまとめたもので、明治後半の静岡県内の報徳運動を知る上で貴重な資料である。 静岡県報徳社事蹟 緒言〔前書き〕 二宮翁の唱導に係る報徳の教義は広く各地に行われ、その効果の見るべきものは少なくありません。なかでも報徳結社の方法によって最も善良の発達を遂げ、翁の理想が大いに行われているのは、我が静岡県です。明治三七年末、本県における公益法人報徳社及びこれと目的を同じくする社団は、本支社を合せて四四二の多きに及んでいます。そしてこれら公益社団は結社以来、善をすすめ産業を興す目的をもって社員を導き助け、その事業の遂行によって、人民の個性の啓発や徳育の刷新、難村の救済もしくは農工商業の改良発達に利益を与えただけでなく、町村の公共事業を振興させたことも少なくありません。そこでその施設事業及び効果の顕著なものを調査し叙述し、もって民心をしてますます共同経営のみちに向わせるとともに、これらの機関が必要なことを知らしめ、将来この報徳の教えがますます普及することを期して本書を公刊するに至りました。本編はつとめて完璧を期し、鋭意調査しましたが、史料に乏しく、加えて事務の余暇に急いで編集したもので、事実をいまだ詳細に調査したものと保証はできません。これらはまさに識者の是正を待って補うところがありましょう。この本を見る人はどうかこのことをご了解ください。 明治三九年一月 静岡県事務官 丸山熊男 目 次 一 二宮尊徳小伝 二 報徳の起源 三 報徳の大意 四 安居院庄七の伝 五 静岡県における報徳の沿革 六 遠江国報徳社 同支社 七 駿河東報徳社 同支社 八 報徳遠譲社 同支社 九 報 本 社 同支社 十 静岡報徳社 同支社 十一駿河西報徳社 同支社 一二法多報徳社 1 「事蹟」に紹介されている報徳社は、1遠江国報徳社、2駿河東報徳社、3報徳遠譲社、4報本社、5静岡報徳社、6駿河西報徳社、7法多報徳社の7社である。遠州地方に限ると、遠江国報徳社、報徳遠譲社、報本社が並立していた。遠江国報徳社は本部を浜松町に置き、見付町と掛川町に支部を置いていた。一八四七年に安居院庄七が浜松の下石田村の神谷与平治に報徳の教えを説き、初めて遠州に報徳社が設立された。その後、毎年一回遠江各地で報徳大会を開いて、結社の数が増加した。そこで各社を統轄する必要が生じ、明治八年遠江国報徳本社を浜松町に設置した。岡田佐平治が社長で、伊藤七郎平、小野江善六、新村里三郎、名倉太郎馬、神谷喜源治等が幹事だった。岡田佐平治の子の良一郎が社長となり、見付町と掛川町に分館を置いた。 明治十五年見付町第二館において有志者で常会とは別に報徳学研究会を設け、報徳の原理を究め、実践の方法を講じた。また掛川町第三館では毎月一回第三日曜日を定会とし岡田良一郎を会長とした。会員は四〇余名であった。明治三五年五月大日本報徳学友社を創立し、岡田良一郎を会長とし、駿河東報徳社長の西ヶ谷可吉を副会長、山田猪太郎を編纂委員とし、毎月一回会報を発行した。 報徳遠譲社は遠江国磐田郡三川村に本社を置いた。明治四年八月福山瀧助の指導により結社し、すべて無利息貸付とするところに特徴があった。 報本社は遠江国周智郡森町に本社を置いた。森町の新村里助(豊作)らが安居院庄七の指導で結社した森町報徳社がその始めである。森町報徳社は、明治五年福山瀧助が遠譲社を組織したとき遠譲社に入社したが、明治八年岡田佐平治が遠江国報徳社を結成した時にまたこれに入社した。明治一七年岡田良一郎が遠江国報徳社の無利息扱いを全廃するときに、新村里三郎が役員だったがこれに反対した。明治二八年遠江国報徳社が無利息金の全廃を決行したため、新村里三郎は同社を退いて報本社を組織した。鈴木藤三郎について「事蹟」の「報本社」の「殖産興業」に紹介されている。「東京における日本精製糖会社は森町鈴木藤三郎の創立した所であるが、藤三郎は初め資力が微弱で起業するに困難であったため、新村里三郎が大変これを助けたので、その報酬として藤三郎より当該会社株の贈与があった」とある。鈴木藤三郎は明治九年一月生家に年始に行ったときに二宮尊徳の「天命十か条」を読んで、初めて報徳の教えを知った。藤三郎は、熱心に報徳の集会に参加し、諸先輩に質問し、報徳の教えを研究した。人が生きる目的は金銭や名誉ではない。人は国家、社会のために、その利益を増進する仕事を行うべきだ。過去の人が行ったことを、今の人が増進して後世の子孫に伝えて国家社会の利益を増進すべきだ。すべての人がこの目的に向かって勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務である。職務の間に上下尊卑の区別はない。自分の職務に専心して尽して天地の秘を明らかにするのが人生の目的である。各人が職務に全力を傾注するときは、職務の遂行に伴って利益や栄達もおのずから発達してくる。藤三郎はそう悟った。明治一〇年一月一日より藤三郎は二宮尊徳の「荒地の力で荒地を拓く」という方法を菓子製造販売業に適用したところ、五年間で売上高が一〇倍になった。藤三郎は「荒地の力で荒地を拓く」という主義はどんな事業でも応用できると確信する。藤三郎は精糖業で国家社会を利そうと志を立て、数年間研究し透明な氷砂糖製造法を発明する。氷砂糖製造工場の建設資金を森町の実業家福川泉吾から融通を受けた。また藤三郎は報徳社の「無利息貸付」を効果的に利用した。明治一八年氷砂糖第二工場新築に一八五円四〇銭、一九年経営資金に一月二五二円、四月二八八円、二一年氷砂糖工場東京移転建設資金に三二四円、二二年経営資金に三三三円、二四年鈴木鉄工部設立に三三三円の貸付を受けている。事業成績は良好で、毎年拝借後、半年から一年で返済している。鈴木藤三郎は「報徳の精神」をその事業を興す考え方の基盤とするとともに、氷砂糖、精製糖、鉄工事業の草創期は、福川泉吾の援助と森町報徳社の「無利息貸付」によって資金調達を得ていたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年12月12日 15時48分07秒
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