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2022年01月14日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
藤三郎、富士の裾野、桃園に鈴木農場を開く
明治35年(1902)藤三郎は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。

御殿場線佐野駅(現裾野駅)から北へはいった所で、前に黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹、はるかに富士の山々を仰いだ眺望絶景の仙境である。長男嘉一郎が経営に当った。
農場の面積は、約百町歩の大農場で、茶園16町歩、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、おうとう、みんな、びわ、くりなど)、野菜園12町歩、山林約50町歩があった。牧畜部には、乳牛60頭、馬11頭、鶏500羽などが飼育されていた。11戸の農大家族が農場内に住み、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いていた。
 藤三郎は、商業、工業、植民地農業に報徳の仕法を応用し、非常な効果をあげた。そこでこれを内地農業に応用し、わが国全産業に対する報徳の経営の規範を完成して、尊徳の遺徳に報いたいという念願を起した。
明治39年(1906)11月9日藤三郎を会長とする佐野実業会は、冬季大会を静岡県駿東郡佐野町尋常高等小学校で開催した。駿東郡の重立った人々が来会し、協議後、藤三郎と留岡幸助が報徳に関する講話をした。その夜、留岡は藤三郎の鈴木農場に宿泊し、その夜から翌日午前にかけ趣味ある談話を交わした。藤三郎が老後の精神的本陣として経営する農場を一巡し、藤三郎と留岡は、10日午後1時の汽車で帰京している。
また明治40年(1907)1月3日、4日にかけて中央報徳会の一行が鈴木農場に宿泊し、農場を視察した。その模様は「斯民」で「駿河土産」(本書p214)として国府犀東氏が紹介している。





 駿河みやげ《下》(国府犀東 斯民第1編第12号明治40年3月23日号p64-74)

<鈴木農場 抜粋>

◎やがて佐野の駅に着く。停車場の薄暗き中に鈴木氏の家人出で迎いて立てり。出口に行けば手に手に提燭(てしょく)をかかぐ。みな鈴木農場と筆太にしるす。腕車(人力車)に載せられて闇中を行く。車夫の提に沼津停車場としるす。あやしんでこれを問えば夕刻沼津よりここに呼び集めらるという。さては鈴木氏予らを迎えんための心づくしなるか。

◎渓橋を渡る。東側に鞺鞳(とうとう:水響く様子)の響きありて、暗黒の中に真白きもの頻りにおどる。上に洋館らしきが灯(ひ)を点じていと賑わし。白きは佐野の五流瀑、洋館は瀑園のホテルなるべし。左方の高処に二階屋の灯火きらめけるを望む。鈴木氏の別墅(べっしょ:別荘)たる桃園荘はこれなんある。

◎道は橋より左に折れて、急湍(きゅうたん)の声を左側に聞きつゝ、車は坂路(さかみち)の下に来る。丘の北側に真白きもの地に敷く。車を下りてそを踏めば、さくさくと音せり。さてはこの朝降りし雪の残りしならんか。阪を登りて半ばにあたる。右に離して門を設けたれど戸あることなし。前栽の木立を縫うて先ず玄関に入る。鈴木氏出で迎いて『さぞ寒かりしならん』という。音吐例のごとく朗々たり。

◎請ぜられて楼上に登る。欄の外にガラス戸を立て閉め展望に便す。北東南の三面皆開けたれど暗夜をいかにせん。6畳に14畳の2室、前者の東ヒサシに扁額して、『桃園』の二字を署す。鉄舟居士の筆にかかる。後者の扁額に竹を描く瀟洒また見るべし。9尺の大牀に三幅対、南朝三名臣の絵をものす。菊池氏の子孫画を以て名あるものこれを描く。牀の左側に白衣大士の古像あり、古色蒼然、由緒あるらしき木像なり。つくづく見れば鎌倉の禅刹に見し所と、鑿法極めてあい似たり。必ず運慶の作ならんと察せらる。

◎座定まりて話始まる。主人も客も皆話好きなり。何かと話する中、鈴木氏かの観音像を座上に引き出さる。空ぼりの像裏に署して、寿永二年運慶作としるす。鈴木氏いう、「もと箱根の権現に在りしものなりと伝う」と。なつかしきかな、この観音や。昔、曽我五郎の幼時かばわれたる御寺に在りし仏像なり。虎の御前が冥福を祈りし寺の仏像なり。作の運慶なるはいうまでもなく、人をことさらになつしからしめたれどそれよりも一たび回想して700年前の鎌倉時代を目前にホウフツたらしめたるは、さすがに芸術の力なり。観音は黙して語らず。静かに青蓮の目を睇えてヒトミに深き光を輝かすのみなれども、黙々の中に当年の歴史を物語ること、蘇秦張儀やデモセニスの雄弁もまた及ばざるものあり。

◎あい代りて旅装を脱し、和服に着換えて浴室に入る。順次に浴を出でて広間に居並ぶ。配膳規則正しく連ねられて、大鈴木小鈴木父子座を並べて危坐(きざ:きちんと座ること)。酒を勧めらるゝもいずれも杯を傾くるなし。飢を覚ゆるほどに二椀三椀の香飯を喫し尽くす。牀の間なる児島高徳桜樹をけずりて詩を題するの図より起りて、桜を植ゆるの話始まる。

原氏いわく、『日本に貴ぶべきは山桜なり。普通の桜は花も一時に開きて一時に散じ、虚栄浮薄の花なれば、国華とすべからず。葉に毛虫生いて益あることなく、木もまた世用に値いせざれば、かかる花を賞するはもっての外なり』と。一場の『桜花亡国論』、光焔万丈、機鋒峭峻、また当るべからず。

◎話題一転して、断食の事に及ぶ。鈴木氏七日不食の事を語りて、少時清水港より横浜に行かんとし、今よりいえば乗り得べしとも見えざる小蒸気船に貨物満載せられしより、人みな危ぶみてこれにとうぜんとするものもなかりしを、それと心もつかずでその船に乗込み、海上台風にあうて大波に漂わさるゝこと七昼夜、全く食わず飲まずして元気いまだ衰えざりしが、横浜に着きて旅舎に入りし後は全く昏睡の身となり果て、人事不省なる霎時(しょうじ:しばらくの間)、医薬によりてようやく蘇生して漸次に薄き粥などをのどに通しうるに至りしとの話をして覚えず風濤澎湃の中に坐するの想いあり。

◎『戦時に際して陸軍糧秣廠よりの依嘱もあり、さきに砂糖凝結の実験をなし、方式に従いて、醤油のエッキスを試造したるに、初めて高熱度を用いし為か、豆分と塩分と全く分離して固有の旨味を失い、実験意のごとくならざりしが、ついで低温度にて固結せしめるの方式を設け、ついに原来の味と全く異ならざる固形醤油を造り得るに至りしが、当時戦地に供給せられしはすべてこの醤油なりしなり』とて膳に用いられし醤油がこのものなりと説明せらるゝを聞きゝては、戦役の当時この便利なる固形醤油がいかに我が軍隊を利益したるの多かりしやを憶えざるを得ず。

◎『従来は砂糖の製造に従事したりしが、かくてこれよりは全く自己の業をも替え、醤油の醸造を始めんはずにて、今は既にその試験をもおえたり』とて、更に新式醸造法の説明もあり、従来の醤油醸造がいたずらに2か年にわたりて、暑日の発酵と寒時の発酵とを経過せしめるに反して、一定の装置により、従来の長日月を僅々2か月に短縮し得たること、並びに従来の醸造法が防腐剤に代用するため、味を付けるに必要なるよりも更に多くの塩を一時に用いたるをも改め、絶えず液層のおもむろに振盪(しんとう)せられつゝ、上層下層の漸次に交代して、ために腐敗を免がるゝの構造をも作り、従来の旧法と全くことなりて、一時に多くの塩を投ぜざる工夫をも凝らしたることまで、事詳らかに語られしが、かくて長年月を費やさざるもよく醤油の製分をば、まず暑日と高温の下に、ついで又寒時と同温の中につきて両次とも従来の旧法と同一の発酵点に達せしむることを得、時間を省きたるだけにでも、多額の醸造額を得べきことゝなりたるは、近来外国にも日本の醤油を需要するもの多き今日なれば、発明としていかに有益なるべきや、固より予らの呶呶(どうどう:くどくど言うこと)を待たざるべし。

◎大食したる者の実験談も起りぬ。変化に魅せられたるものゝ話もありき。銀燭爛として火桶の炭火なお紅を噴けども、話の尽きぬ気色も見えず、四大寂然として、夜は三更を過ぎぬ。大鈴木小鈴木父子共に一礼して楼を下り、一同寝臥を連ねて脚を展ばし、既に華胥の国に遊ぶ。

◎紅日杲々(こうこう:日光の明るいさま)として光は欄の東に充ちぬ。板戸の透間より金線天のごとくに射りて、枕頭の観音像を薄暗き中に現前せしめぬ。寝過ごしたりとて起き出でつ、板戸を繰れば、楼はまさに旭日とあい対し、箱根の連山、伊豆に走る処、巒々(らんらん:峰々)霞を帯びて、寝覚めの色、新沐の人に似たり。楼下に瀑園の流末、急端をなして水声石に吼ゆ。嗒焉(とうえん:我を忘れるさま)として物我を忘るもの良久。一月四日なり。

◎一人起き二人起き、宛(さな)がら道者の旅宿に在るの観あり。げにや報徳旅行の道者一行7人とはよくも言いたり。盥嗽(かんそう)を終えて先ず椽下(えんのした)に出でぬ。庭ゲタひっかけて庭に歩す。鈴木氏客と接してありしが、幾もなくして客去り、同じく庭に出でゝ『ここへ来れよ』と導きつ、屋の北側に小澗谷(かんこく:谷)を作りしを指し、そこなる三重の小瀑、流れの上にカヤ葺きの一亭子あるを見よという。西に小瀑を見下しつ、その上に小丘の頂重なりたる間、竹篁(ちくこう:竹林)茂れる上に、富士の絶巓(ぜってん:山の頂)真白きが、鈴木氏の園中をのぞきこみたらん風情『諸君お早う』といわんばかり。

◎導かれて養雞(ようけい)の小屋に行く。鉄網張りし中に西洋種の鶏肥えたるが羽美しく、雛を引きてその中に遊ぶさま、ことに長閑(のど)かなり。鵝鳥(がちょう)の一隊、家鴨(あひる)の一隊、そのあたりに分列式を挙げてわれを迎う。再び庭に来れば、そこにも、塒(ねぐら)を設けたるあり、紅日三竿なれど未だ起き出でず。天の岩戸をおし明けば、幾羽となくうるわしき雞(とり)始めて東天紅となき始め、先を争うて戸の中より跳ね出でぬ。こゝにも雞支隊あらんとは、図らざりき。小鈴木氏曰く、『雞(とり)は十分にねむらする方、もっとも発育によろし。早く起こして寒さに逢わせんは悪(あ)しゝ』と。用意極めて周到、雞を養うこと孫を愛するに似たり。

◎中川望氏と屋後にめぐり、ガチョウ群の陣前を過ぎて門内に出づ。中川友、白石、相田三氏もまた跟して到る。門に対するの小丘、右方斜めに小谷を呀し、筧して水したたる。その上に残雪一面をおおう。いざ登らんとして雪を踏みて丘上を指す。荊棘時に人の足を鉤して痛さを覚ゆ。白石氏最も登るに艱(なや)む。中川友氏ために留まりてその手を引き、丘腹の坂路に引き上ぐるさま、全く溝に陥りし人の助け上げられたらんようなり。

◎坂路をめぐりて頂きに立つ。一亭子あり、踞牀を設けて展望に便す。富士を左方の丘後に望み、前面に佐野の瀑園を指点すべし。鈴木氏の家は眼下に在り。相田氏は賢者なり。倒行逆旅せずして丘麓より坂路の沿い、悠然として登り来る。崖をこゆるほどの愚はあらざるべし。

◎丘を下りて門に入り、再び楼上につきて座を定む。農場の主任らしき人どもに交わりて、静かに農場の説明を始む。まずこの地何の処かと問えば、静岡県駿東郡富岡村字桃園という、それより反別などを語りしを記さんに、総反別78町9反1畝13歩 内 田8畝11歩 畑14町7反9畝21歩 郡村宅地1反19歩 山林63町9反2畝22歩 この買入価格1万8千円にて爾来開墾等に要したる経費を合すれば、3万1千円に及びしとの事なり。(相田氏の手帳による)

◎鈴木氏の語る所によれば、この地はもと幕臣黒田久綱氏ほか4名が共同して、明治6年頃より開墾し始めたるものなりしが、黒田氏はその後東宮武官として久しく在職したるも、他の人々はいずれも零落したるがため、漸く黒田氏の補助によりてこの地の開墾を経営したりしに、漸次に困窮して事業ますます振るわず、さればとてこの地面を分割して売却するにも忍びずとて、いずれも困じあえりしより、(明治)32年駿東郡長の交渉もありて、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたりという。

◎小作人は今10戸を算じ、農事多繁の時には、他より雇るゝこと常に10人。小作人には、まずもって4間半に2間の家屋を建築し、無料にてこれを貸与し、鋤鍬の類を給与す。農場の中につきて5町歩ばかりには、リンゴ、ブドウ、桃、



柿等の果樹を栽培す。野菜は小山なる富士紡績会社に交渉して、職工の副食に供せしめたるに、会社にても新鮮なる野菜を得るの道も開けたりとて大いに喜べりといへり。製茶にありては、年1千貫目を産し、一農場にてこのくらいの額を産するもの、今日にてははなはだ稀れなりという。目下、牛舎を建築中にて、こゝに放牛をなし、かつは肥料をこれに資らんとの計画なりという。養雞、数百羽、その他アヒル、ガチョウ等あり。これを鈴木農場における事業の一斑となす。
◎朝食を追えて服装を理(おさ)め、玄関に出れば、農場を

めぐるの用意にとて、馬4頭静かにわれらを待つ。大鈴木氏

その一に乗り、岡田氏その次の一に乗り、われまたその次の一

に乗る。馬背得々として出で立つ。

◎さきに登りし丘に行き、南方なる一丘に馬をつなぐ。小林

ありて林外に一亭あり、林中に小神祠を置き、そのかたわら

に古石碣(いしぶみ)あり、『柾薗貞純親王塔』と鐫(せん)

す。更にそのかたわら近くに一碑(※)を建て、鈴木氏その

由来を書してこれに刻す。白石氏そを写し取れるに曰く、

『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社

二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。

桃園貞純親王塔七字。或曰此石元在神社境内。或曰昔時有計埋

塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。

則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』と。    石碑(桃園神社に現存)

※2011年8月28日裾野市鈴木図書館調査の際に「市史」に移築の記事を見つけ現地で発見した。

◎前宵桃園貞純親王の事、端なく話頭にのぼる。中川望氏曰く、『我が家、もと中川瀬兵衛に出づ。系図によれば遠く貞純親王に出でぬという』と。奇なるかな、期せずしてその後裔たる中川望氏が端なくもその祖先の古塔に礼するの機を得たらんとは。

◎農場を望めば、茶圃つゞき、茶圃連なり、上に富士の霊山厳然たり。丘下に瀑園の流崖に迫って急灘(きゅうたん)を激せしむ。再び馬に登って農場に向かう。途中、鈴木氏その馬をとめて下方を指し、『定輪寺の旧地域は、昔時この辺にも及びしが、今は挙げて農場の中に入る』といいて、寺が一山を隔つるを指し教ゆ。

◎宗祇法師が終焉の地は、桃園山定輪寺に在りしと聞きしが、さてはこの地すなわちこれなりしか。たゞ赴きてその墳を弔い得ざりしを惜しむのみ。宗祇の辞世に曰く、『はかなしや鶴の林の煙にも立をくれぬる身こそうらむる』と。自画賛に曰く、『うつしをくは我影ながら世の憂きも知らぬ翁のうらやまれぬる』と。俳諧に曰く、『世にふるはさらにしぐれのやどりかな』と皆定輪寺に伝えられぬべし。義経の頼朝に対面したる黄瀬川も、程遠からぬ地なるべきか。

馬隊は先に立てよという。予ら馬背の一群先に立ちて農場をめぐる。一小屋あり四面ガラス戸にて、報時鐘(ほうじしょう)などをもそこなる尖頭にかけたり。牛舎をもめぐりしその小屋ある処に憩う。農場監視の場なりとか。茶圃の間を行きぬ。黄牛斑牛そこらに遊び、桃林牛を放つの趣きあり。行き行きて地ますます高し。宛然たる裾野なり。農場の最高処にあたる。地を界するに桜樹一列をもってす。旧この地を経営したる静岡武士が武士の誇りとして植えたるものならめ。右に大野が原を望む。茶褐色にして林木薄黒し。上に富士山咫尺(しせき:距離が非常に短いこと)の前に直立して手に攀(よ)づべきを覚ゆ。馬背得々として引き返す。

◎午餉(ごしょう:昼飯)をおえぬ。汽車発着の時刻も迫りたればとて、倉黄(そうこう:慌てて)暇を告げて立ち出ず。鈴木氏馬背に鞭を横えて来り送る。我が馬その後に従い、一馳せすこぶるはやし。心もとなき馬術なれば、跳ね落とされんとするもの数回、瀑園の南、橋上馬を立てゝ劉備の渓関を飛び越えし当年を想う。馬一散に駆け出して停車場近し。一行皆列りて汽車の発すること間髪をいれず。『サヨナラ』の一声、車轆々(ろくろく:音を立てて走るさま)たり。(をわり)





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最終更新日  2022年01月14日 23時25分56秒



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