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カテゴリ:遠州の報徳運動
駿河東報徳社 創設者の小伝 柴田順作略伝
高田宜和の略伝 宜和は駿東郡沼津町和田義宜の第二子にして庵原郡高部村柏尾高田七左衛門の養子となる。性怜悧にして学才あり。最も国学に長じ、地頭長崎某の領地の長となり名声遠近に高かった。明治維新後静岡藩地租改正御用係となり、よく地方行政の諮詢に答え地租改正事業についてはその功績が多大であったので、静岡藩より賞品を拝受した。後に郷社龍爪積神社の祠官となり権中教正となり専ら県下各地に神道要義を説教した。明治十五年郷社開田神社祠掌柴田順作の嘱託によりその監督する報徳社の教師に招かれ敬神愛国の要旨を報徳社員に講説して報徳社の振興をはかった。明治十六年衆社員に推されて駿河東報徳社の社長となり、柴田氏と共に報徳社の結成に力を尽くしたが、明治十九年六月病にかかり六十四を一期とし同年九月十六日を以て逝去した。 牧田勇三の略伝 牧田勇三は庵原郡尾羽の人にして天保十三年三月十五日を以て生まれる。勇三の父包栄は領主石川氏に仕えて在職四十年よくその任を尽くし功績が多かったという。天保の凶饉に当たり包栄千憂万慮わが事を捨てて専ら救済の手段を講じたが、良好の方法を得ず。時に二宮尊徳の門人柴田順作、報徳の教えによりて家道を回復したと聞いて就いて報徳学の大旨を聴き大いに得る所があった。安政三年自村に報徳社を創設し以て勤勉勧業の道をおしえた。村民はその徳に化し、数年たたないで大いに村民の富力を増した。これより先、勇三の家は領主の会計整理のため四十年間奉公したためか、安政の頃衰運を来した。包栄はそのうちにあって家事を忘れて専ら居村の回復に尽瘁し、よくその目的を達することを得たが、一家はいぜんとして衰運のなかにあった。そこで漸次自家の整理に従事するに至った。勇三はすなわちこの間に生まれ成長したため辛酸をつぶさになめ、よく父を補佐し家政の改革に従事すること十三年常に報徳の教えを奉じ一生懸命一家の経営につとめ、明治元年に至り家運ようやく旧に復した。同六年中、包栄の遺督をうけてますます勉めた。のちに戸長となり公事に勤め大いに名があがった。たびたび公益事業に寄付し褒賞を前後十数回受けたことがある。 明治十一年近村に報徳社が設立された。勇三もまた自村に再興を計り勤勉貯蓄の美風を養成し更に一村火災の患いを除こうとして自ら各戸に説いて社金を貸し付けて各家の屋根の構造を改めさせた。また柴田順作・高田宜和を補佐して駿河東報徳社を創設して勇三はその幹事長となって大いに社業の拡張をはかった。故文部大臣井上子爵かつてこの社を巡視されて勇三の功績を聞いて同人を旅館に招いて報徳の道を諮問されたという。 明治二十四年四月駿河東報徳社長柴田順作死亡後、勇三は推されて社長となったが、同二十五年病を以て社長を辞し、同三十三年九月逝去した。年五十九。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月15日 17時00分22秒
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