12349394 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
全て | 報徳記&二宮翁夜話 | 二宮尊徳先生故地&観音巡礼 | イマジン | ネイチャー | マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界 | 宮澤賢治の世界 | 五日市剛・今野華都子さんの世界 | 和歌・俳句&道歌選 | パワーか、フォースか | 木谷ポルソッタ倶楽部ほか | 尊徳先生の世界 | 鈴木藤三郎 | 井口丑二 | クロムウェル カーライル著&天路歴程 | 広井勇&八田與一 | イギリス史、ニューイングランド史 | 遠州の報徳運動 | 日本社会の病巣 | 世界人類に真正の文明の実現せんことを | 三國隆志先生の世界 | 満州棄民・シベリア抑留 | 技師鳥居信平著述集 | 資料で読む 技師鳥居信平著述集  | 徳島県技師鳥居信平 | ドラッカー | 結跏趺坐 | 鎌倉殿の13人 | ウクライナ | 徳川家康
2022年06月22日
XML
カテゴリ:遠州の報徳運動
三遠農学社の八老農 松嶋授三郎
 『引佐麁玉有功者列伝』「三老農伝」に松嶋授三郎の事績を述べられている。
「松嶋授三郎は遠江国豊田郡羽鳥村の人である。明治8年に引佐郡伊平村に移住する。家は薬屋を生業としたが、その志は通常の商人の類ではなかった。明治12年伊平村に博徒がのさばって博打を行い、村の良民を誘って惰民の巣窟となるありさまだった。村長の山本宗次郎は松嶋に相談した。松嶋は「民を治めるには水を治めるようにするべきだ。速やかに効果をあげようとすればかえって破れるおそれがある。徐々に計を実施するほうがよいでしょう」といってその方法を述べた。村長はその計に感じて、村民を導くことを松嶋に託した。松嶋は野末九八郎とはかり農学誠報社を組織し、野末を社長にした。社は専ら農業を奨励し、道徳を講じ村民を教化することを基本とし、数年力を尽くしたところ、村民はついに誠実で人情に厚い風俗にかえった。明治14年9月には大迫静岡県県令より金円を賜って、誠報社の功績を称した。
松嶋は常にこう思った。「人民が怠惰に流れれば救わなければならない。農業が振るなければ振興しなければならない。古語に『人心これ危うく、道心これ微かなり』という。道心は回復しなければならない。これは皆な偶然に起るではない。その由って来る所について計を施さなければ、よい結果を観ることができない」。そこで明治15年9月に率先して松嶋の居村伊平村に西遠農学社を組織し、農学の研磨を行うとともに道学の講究を兼ねた。松嶋はまた自邸の内に夜学を開き、学生数十名に教授した。書籍器具その他の費用はすべて松嶋が支弁した。始め西遠農学社を起そうとして賛助者と共に社員を募ると続々と賛成を得てその数は既に千有余名に至った。なお加盟を願う者は、日一日と増加したため、更に同郡の気賀・奥山の両所に支社を設け、毎月一回常会を開いた。また各地有志者の要求で松嶋は社員を率いて出張した。今や松嶋が説くのを聞こうとする者は、遠州の佐野・周智・豊田・長上・敷知・麁玉・引佐の七郡及び三河の八名・設楽二郡にまたがり、その開会にあたって来会する者は、多いときは七、八百名以上、少ないときも百名を下らなかった。明治16年11月に松島十湖は公務のため静岡におもむいて永峯大書記官に面会し、話のついでに農学社の事に及ぶと永峯は大変喜んで維持金を賜った。関口県令も金と直筆の書を賜った。ああ西遠農学社がよい結果をもたらし、栄えたものは松嶋が率先し鼓舞したからだ。しかし松嶋はこれを自負する色が無く、かえって自分の功績が現れることを恐れるようであった。松嶋の謙譲のほどを察するべきである。
 これより先、明治元年数月雨が続き天竜川の堤防が決壊し、数十か村が氾濫し田圃家屋が流された。豊田郡中善地羽鳥・石原はその被害がひどかった。石原村は耕すに土地なく、食べるに食物なく、活路を失する者が全村中半ばに至った。里正小栗清九郎の門に哀れみをこうた。小栗は松嶋に相談した。松嶋「百金を私に貸せ。私は困窮した人々を仕事につかせよう」。小栗「百金で多くの人の命を救えればどうして惜しもう。しかし人々に分配すれば一二両に過ぎない。どうしてその凍えや飢えを救うことができよう」。松嶋「私に策がある。憂えるな」。松嶋は下石田村の神谷與平次とはかり、人々を集めて言った。「今寒い時で老幼は野外で仕事ができない。壮者よ、今困窮に逢う、非常の勉励をすべし非常の艱苦を忍ぶべし。私はいま衆のために一策がある。私が行うところにならって背いてはならない」。松嶋は自らもっこをにない、水害にかかった荒地の起き返しに従事した。人々と困苦を共にし、終日安んじなかった。その得た賃金で各々家族を養わせた。翌年4月麦が熟し、人々の困窮を救うことができた。
明治18年7月風雨が暴烈で数週にわたり、天竜川の堤防が決壊し、豊田郡西部及び長上郡の村落は浸水した。田植えの時節で、水が減じても苗は腐敗し生育しない。松嶋は言った。「ああ共に救いあうのは人生の通義である。私は農業にまかせる者で傍観する時ではない」。名倉藤三郎・早戸仙次郎・井村又三郎等と西遠農学社の社員にはかり東奔西走し昼夜の別なく各戸の残苗を集め、二万数千把を得て、すぐに被害村落に贈ってその窮を救った。
氏の人となり勇壮活発、人の良い言葉や善行を挙げ、道義を講じ、殖産興業を談じた。雄弁で聞く者は感嘆した。人がその経歴を問うと笑って答えない。私はある人の家政が退廃するのを見て挽回しようとして失敗した。私が羽鳥村にいた時、全村に関する訴訟があり総代に選ばれ中泉県令の庁に到り悟る所があり、総代の任を辞し、以来訴訟の事に関わらないなど数事を語るのみだった。松嶋が自任し務める所は報徳の道と農桑を世に拡張せんとするにあった。」





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022年06月22日 21時16分50秒
[遠州の報徳運動] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.