カテゴリ:歴史あれこれ
ヒノキ並木 柴田監物と柏木の森 「柏木(かしわぎ)」という地名がある。 全国各地に点在するが、東北地や北海道には特に多い。 次の地名は横手市の一例である。 秋田県横手市雄物川町柏木 秋田県横手市大雄柏木 秋田県横手市大雄柏木南 大雄柏木南の北部、現在、横手市の実験農場がある辺り、江戸時代には広大な柏木の森があった。 田村の開祖、柴田監物が守り育てていたもので、柏木の数は10万本を超すといわれた。 柴田監物は山形城主最上義光(もがみよしあき)の家臣だった人で、故あって田村の地に来て根を下ろし、開拓により秋田藩から辛労免100石を許された郷士だった。 その柏木森が藩主の目に留まり、6代目監物茂昆(しげひで)の代に、「大切にせよ」との趣旨で藩から「制札」を給わった。 制札は「田村の内、柏木野林に立て置く間、下草であっても刈り取ってなならない。正徳三年(1713年)五月日 渋江右衛門(現代文に要約)」との内容が書かれてあり、平成の初期までは柴田家に保管されていたことをこの目で確かめている。 その後、制札の存在は確認していない。 ただし、その柏木の森は、残念ながら現代に引き継がれてはいない。(参考・菅江真澄著「雪の出羽路」) 広葉樹と針葉樹に「柏」 一般に柏というと、柏餅などに使われる幅広の葉を持つ広葉樹をイメージする。 柏の葉は古くには食器として用いられ、葉守の神が宿るとされた。 柏木(かしわぎ)は、源氏物語に登場し、王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称であるという。(参考・柏木・(源氏物語) ここでいう柏は柏、栢、槲などとも表記されるブナ科の落葉低木のことを指している。 しかし、針葉樹にも柏の木がある。 Wikipedia-柏によると、 『柏(かしわ・はく) ・ブナ科の木。カシワ。 ・「かしわ(かしは)」または「かへ」とも読み、ひのき・このてがしわ・いぶき・さわらなどヒノキ科の植物を指すことば。』などとあり、広葉樹、針葉樹双方に「柏」がある。 また、マピオン「かやのき」で検索すると、次のような地名が見られる。 岩手県一関市花泉町永井新栢の木 福島県郡山市榧ノ木 愛知県東海市大田町柏ノ木 福島県白河市双石柏ノ木 山口県宇部市奥万倉柏ノ木 カヤ(榧)は、イチイ科カヤ属の常緑針葉樹だが、「柏ノ木」や「栢の木」を当てている。 また、植物のヒノキのことを扁柏(へんぱく)という。(参考・コトバンク・扁柏) 一般に、ヒノキは福島県東南部以南の本州、四国、九州に分布し、杉に次いで造林面積が広く、高級木材として知られる。 木曽ヒノキは特に有名で、神社・仏閣を建てるための木材として古くから使われて来た。(参考・「国産材一覧 Weblio辞書-扁柏」) だが、東北北部にヒノキの自生地はない。 代わって多いのがアスナロである。 アスナロの変種であるヒノキアスナロを青森ひばと呼び、青森県特産の木材として珍重されてきた。 東北森林管理局/青森ひばにその由来が記されている。 『ヒバ(アスナロ、ヒノキアスナロ)由来 北方系のヒバ(ヒノキアスナロ)は、古くから社寺仏閣などの建築材料として珍重された。 津軽藩や南部藩の古文書では、「青森ヒバ」は「檜」と記され、木曽のものは「上方檜」として区別していた。』(概要記載) 「新木偏百樹・ひば」によると、 『アスナロの語源を「明日はヒノキになろう」に由来するというのは誤りで、古くはアテヒといわれ、高貴なヒノキという意味であった。 「明日はヒノキになろう」の 最初のきっかけは、清少納言の「枕草子」である。 有名な青森ヒバは神社仏閣などの建築用材として用いられ、岩手県平泉の中尊寺金色堂、青森県岩木町の岩木山神社楼門数多く残されている。』などとある。 枕草子第40段「花の木ならぬは」『あすは檜の木、この世に近くもみえきこえず。御獄にまうでて帰りたる人などの持て来める、枝さしなどは、いと手触れにくげに荒くましけれど、なにの心ありて、あすは檜の木とつけけむ。あぢきなきかねごとなりや。誰に頼めたるにかと思ふに、聞かまほしくをかし。』(参考・アスナロ) 中国から常緑樹たる「柏」が伝わったとき、日本では落葉樹の「カシワ」と混用してしまったとする説がある。 しかし、木に詳しい専門家の間では「柏」をヒノキ類と認識していたらしい。 「柏(ハク)」と「カシハ」にみる中日文化に非常に詳しい。 「桧山(ひやま)」や「檜山(ひやま)」という地名も東北地方北部や北海道に多い。 桧山はたいてい、ヒノキアスナロがたくさん生育する山がその由来となっている。 わが家のヒノキ 「柏木」は、「ヒノキ」地名と見ることが妥当かも知れない。 広葉樹の「カシワ」は木材としての需要は少なく、針葉樹の「カシワ」は木材として有用で、需要も圧倒的に多い。 建築用材としての「柏木」が森や林として守り育てられ、それが地名の由来である可能性が高い。 わが家は柴田監物から分かれた分家である。 江戸時代は大工を業としていたようで、巨大な鋸や大小さまざまな鋸、鳶口(とびぐち)が今に残されている。 柴田家の敷地内には江戸時代後期に建てられた郷倉があり、昭和の中頃まで存在していた。 郷倉の所有者はわが家の先祖で、管理役も担っていた。 そのことから、田村郷の郷倉はわが家の先祖が建てた建物に間違いないと思う。 柴田家との密接な関係から、もしかしたら江戸時代、わが家は柏木の森を管理する役目を担っていたのではないかと推測している。 高級木材のヒノキたる「柏木」を活用し、神社仏閣の建築を業としていたかも知れない。 わが家にヒノキの一種である「サワラ」が、県道に面して並木状に20数本植えられている。(写真) 幹の途中から伐られて2、3本の株立ちになっているものが多いが、太いものは目の高さの幹回りが3m近いものもある。樹齢は200年近いのではないかと推測している。 また、わが家の庭にはアスナロ(ヒノキアスナロかも知れない)も昔から植えられている。 柴田家との関連を考えれば、わが家にこうした木が昔からある理由が分かる気がする。 わが家は柴田姓ではなく、木に関した名字を名乗っていて、家紋は丸に三柏である。 つい最近、わが家のヒノキ並木に若者が運転する乗用車が追突し、4本の木に傷がついた。 幸い、若者は無事だったが、車はかなり壊れた。 江戸時代から生きてきて、初めての事故に遭い、木もびっくりしたに違いない。 【追記】 柴田監物は江戸時代、頭領(棟梁)だった可能性がある。 周囲に柴田氏を名乗る家が数戸あり、すべて大工を業としているからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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