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カテゴリ:つぶやき、人間関係
永田死刑囚死亡、
「事件の歴史に幕」と元捜査員読売新聞 2月7日(月)3時1分配信 1971~72年に大量リンチ殺人などを起こした元連合赤軍最高幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚(65)が5日死亡したことで、永田死刑囚を知る関係者らからは「連合赤軍事件の歴史は幕を閉じた」「自らの責任を掘り下げてほしかった」などの声が漏れた。 法務省の発表によると、永田死刑囚は5日午後10時6分、東京・小菅の東京拘置所で多臓器不全により死亡した。84年に脳腫瘍の手術を受け、2006年には脳萎縮による意識障害で寝たきりとなり、ここ1年間は意思疎通も困難な状態だった。昨年9月以降、誤嚥(ごえん)性肺炎で治療中だった。 当時、群馬県警捜査1課指導官として取り調べを指揮した前橋市の鈴木万作さん(85)は「取り調べでは本当にしぶとく、最後まで『闘士』の顔を持った人だったが、病には勝てなかったのか」と振り返り、「連合赤軍事件そのものの歴史が本当に幕を閉じた」と、かみしめるように話した。 . 永田死刑囚が獄中で亡くなったことを知った時、何とも言えないやりきれなさがあった。 私自身は、いかような理由があっても殺人は許されないという考え方の一環として、 死刑という刑罰には反対の立場である。 だから、色々なブログなどで散見される 「死刑囚が天寿を全うするのは疑問」という考えは持っていない。 私がやりきれなく感じているのは、 あの頃は赤軍派だけではなく、学生運動に関わっていた人たちが 「総括」という言葉をよく使っていたことを知っているからによる。 あの頃、学生運動でヘルメットをかぶりゲバ棒を持っていた人たちは、 ほとんどがエリート軍団だった。 大学への進学率も、今とは比べようもなく低い時代だ。 その頃に、たとえ苦学生だったとしても、 大学で学べた人たちはそれだけで恵まれた人たちだったし、 知的にも高い人たちだったのは確かだ。 私は、それだけに彼らの主張には正しい面が多いのだろうと 単純に思っていた部分は多かったし、 社会の理不尽は変えなくてはならないのだろうとも思っていたから、 彼らの主張が理解できない自分を恥じてもいたし、 恐る恐る疑問の言葉を発した時に ピシッと「日和見主義」だの「ノンポリ」だの言われると、 どうにもならない劣等感と共に黙り込むしかなく、 「やっぱり私はダメなんだ」と情けなくも感じていたと思う。 さて、その後の彼らがどのように生きたか。 赤軍派のようなムチャクチャは論外としても、 大学卒業と同時にヘルメットもゲバ棒もさらりと捨てて、 大企業や官僚、自治体職員などなど、いわゆる安定したホワイトカラーへと変身し、 その後の高度成長期を、学生運動の頃とはステージは違うが、 イケイケドンドンと突っ走り、弱いものは「弱虫、自己責任」と切り捨ててきたのではないか。 それもこれも、自分たちの行動とその結果を、 しっかりと「総括」しなかった故ではないか。 私は学生運動世代のシッポとして、それが本当に恥ずかしいのだ。 今となっては、学生運動に端っこにでも加わらなかったことが、 わずかばかりの救いとなっている。 私は彼らと同じ時代に生きていた。 彼らをきちんと批判できなかった自分がやっぱり情けない。 今からでも遅くない。 あの頃学生運動(主義主張は違っても)で頑張ったという経験がある人たちの多くは、 今は定年退職した身であろう。 その後の高度成長時代の先頭を切って走った人たちであろう。 自分たちの行動とその結果を、きちんと総括してほしい。 そして、何か反省すべき点、後の世代の社会に残した負の部分を自覚して、 その償いというか、今やるべきこと、やれることをやってほしいと強く強く願う。 私自身も、自分で可能な範囲で社会に対してできることをやっていくつもりだ。 それが、社会的人間としての最低限のマナーであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年02月07日 09時40分21秒
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