ブログリンクしているsowonさんが書いた「数十万人の感動」に、全く同感している
まず、以前からスポーツ選手などが「感動や勇気を与えたい」などという言葉には、
強い違和感を覚えていた。
感動や勇気は与えられるものなのか?
選手たちの頑張りやその輝かしい結果に、もちろん私も感動することは多い。
そして、心の中で「感動をありがとう」とつぶやくこともある。
でもそれは、私が感動したのであって、感動は人それぞれだろう。
その輝かしい姿に、悔し涙を流す人だっているし、もっと複雑な気持ちを抱える人もいるだろう。
いずれにせよ、「自分が誰かに感動や勇気を与えるのだ」なんて思うのは、
私に言わせたら少し傲慢なことである。
特に青少年のスポーツ選手などがそれを口にする時は、
周りの大人が少したなめてほしいと思っている。
高校野球では、時々「連帯責任云々」で、無関係の子供たちが犠牲になることがある。
それにはいつも腹が立っていたが、口をぬぐって知らぬ顔というのも腹が立つ。
学校で起きた不祥事、あるいは生徒が起こした問題行動には、
学校はそれなりの教育の責任がある。
当事者の生徒にはもちろんのこと、在校する子ども達にはしっかりと向き合ってほしい。
オリンピックの期間中、とても不安に思っていたことがある。
メダル云々のどさくさにまぎれて、私たちにとって重大な決定が、
国会でなされているのではないかということだ。
私の政治不信もかなりのものとなっている。