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テーマ:エッセイ(95)
カテゴリ:過去のエッセイ
下記のエッセイのお題は「眼鏡」だったはずだ。
当時の私はメガネをかけてもいなかったし、なかなか題材が思いつかずに「色眼鏡(偏見)」で書いたのだと思う。 「色眼鏡(偏見)」 44歳 障害を持つ人達との活動に参加していると、人間はこんなにも自分と違うものに対して偏見を持ちたがるものなのかと、ショックを受ける時がある。 福祉映画の上映会を企画した時、仲間入りしたばかりの松葉杖(長く移動する時は車いす使用)の若い女性と二人で、受付と会計を担当した。 彼女に前売り券の集計も併せて行うことを説明し、記録用紙と私の電卓を渡しながら、「これお願いできる? この電卓で大丈夫かしら?」と聞いた。 他人の電卓では使いづらいだろうし、人によっては単純計算はそろばんの方が良いからである。(実は、私がそうだった) それまで笑顔だった彼女の表情が、サッと固くなった。 「大丈夫です。できますから」。 その時から彼女の態度はよそよそしくなり、私は何が彼女の気分を害したのかわからないまま、内心(障害者ってひがみっぽいところがあるから…)などと思っていた。 後日、彼女が「障害者だから電卓も使えないと思われたのかも」とこぼしていたと人づてに聞き、互いの偏見の眼鏡をはずすことの難しさを痛感した。 今は大の仲良しの彼女は、先日某コンサート(自由席)で、一番後ろにしか座れなかったとぼやいた私に、こう言ったものだ。 「そんな時は、私の車椅子を貸してあげるよ」 「そうだね、その手があったか。でも、みんなにどう見られるか怖くて、できそうもないよ」 色眼鏡をはずすのは本当に難しい。 このエッセイへの評価は可もなく不可もなくという感じで、次のようなコメントが添えられていた。 「目の付け所や着想はなかなか。しかし、作品から訴えてくるものが今一息であっけない感じ。とても大きいテーマなのに。それに、これは偏見からではなく「ついうっかり」が誤解されたので、題をつけるなら「言葉は怖い」でしょうか。 確かに言われる通りだと思う。 無理やりお題にこじつけた感じが、私でもする。 それはともかく、ここに書かれているエピソードは、これを読むまですっかり忘れていた。 確かにそのようなことがあったような気もする。 しかし、彼女との思い出はそんなささやかなことよりもっとドラマティックなことがいくつもある。 彼女と付き合うことで学んだことはとても多いので、そのうちにそんなことも書けたらいいなと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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