「テレビ」43歳
北海道の農家であった我が家にテレビがやってきたのは、約三十五年前、私が小学校に入学したころだった。
親孝行な父が、脳卒中で体が不自由な祖父のために、近所に先駆けて奮発したのである。
テレビは茶の間の正面にドンと据えられ、それが見える特等席に祖父の椅子が置かれた。
隣近所にはまだテレビはなかったから、夕方までは近所の子ども達が、夜になれば農作業を終えた大人達が、テレビを見るために集まってくる。
持ち主の子どもであるはずの私達(私を長女とする三姉妹)には、番組を選ぶ権利はなく、人の輪の頭越しに覗いている状態で、茶の間で食事もできず、台所の片隅でご飯を食べたりしたこともあった。
祖父は体や言葉は不自由ではあったが、理解力はあったので、村の人達の輪の中でいつも楽しそうに笑っていた。
プロレスや相撲がある時は人の数はさらに膨れ上がり、私達のような子どもは別の部屋に追いやられ、みんなの笑い声や歓声を面白くない気分で聞いていたものだ。
あの時のテレビは、まさに地域の娯楽やコミュニケーションの中心であり、情報の発信源であった。
障害者の祖父もしっかりとその中心にいたし、時には追い払われていたとはいえ、私達もみんなの傍にいて、近所のおじさん達に可愛がられていた。
テレビがある意味で悪者にされるようになったのは、いつの頃からだったろうか。
このエッセイへのコメントは、
「別段変わったことを書いているわけでもないのに、何となくユーモラス。あなたは自分では気づいていないかもしれないが、ユーモリストのセンスがある。この長所を磨いてください」
と書かれていた。
きっと嬉しかっただろうと思うし、磨きたいとも思っただろうけれど、どのように磨けばいいのかわからなかったことだろう。
まあ、今でもわからないままと言える。
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