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テーマ:つぶやき(11371)
カテゴリ:つぶやき、人間関係
先程、msk222 さんのコメントへのお返事を書きながら思い出したことを書いておこう。
数日前に、近所の自転車店で同世代の店主と世間話をした時のことである。 私より少し若い彼は、今年古希になるという。 「なんだか年寄りになっちゃうような気がして、70代になるのに抵抗がある」と言う。 そして私に、「みらいさんは、そんな気持ちにならなかった?」と聞く。 私は昨年古希を迎えた。 息子や孫たちがささやかなお祝いをしてくれたせいか、古希を迎えたことをありがたいとこそ思っても、嫌だとは全く思わなかった。 だから、 「うーん、私は古希だから老人になったなんてガッカリはしなかったな。 それよりも、40代に入る時の方が焦った気持ちになったかな。 まだ、自分がやりたいことができないままに年老いていくような気がしてね」と答えた。 それは本当にそうだったのだ。 仕事はやりがいはあったけれど釈然としないことが増えてくるし、自分の能力と実力のバランスは悪いし、吐き出すだけで充電できないような枯渇感というか息苦しさがあった。 その後、仕事を辞め、通信課程で大学で学ぶようになり、同時に地域活動・ボランティア活動を求められるままにやるようになり、意図はしなかったけれど第二の人生のような日々となった。 その時その時、なすべきことを一つ一つこなしながら、いつの間にかこの年になったという感じだ。 その間に、祖母と父を見送り、多くの親戚たちを見送り、何人かの友も見送った。 だから、次第に順番が近づいてくるという実感がある。 だから、老いることも逝くことも自然の流れだし、それに抗ってもどうしようもないという気持ちが常にある。 老人になるのは当たり前だし、必要以上の苦痛だけはイヤだけど、人間として味わえるものは味わってしまおうという気もある。 老いることへの負け惜しみなのかもしれないが、このようなことには多少のミエも負け惜しみも許されるだろう。 自転車店の店主は、高校時代に下級生で当時からの顔見知りだった。 今でいえばイケメンの部類だったと思う。 今でも、白髪にはなってきたが見た目は悪くない高齢者だ。 「貴方は何も心配いらないでしょ。いくつになっても自分の判断で仕事はできるし、見た目も悪くないし、カッコいいおじいちゃんになれるよ」 実は彼は、数年前に奥さんを亡くしている。 それだけは気の毒だとは思うが、それもよくある話で残念で悲しいだろうが仕方のないことだ。 「年寄りになるのに抵抗があるなんて、若い証拠だねえ。私はもう年寄りになっちゃったせいか、後は何年元気に自転車乗れるかなと思うだけだよ」と笑った。 彼もつられて笑いながら、 「まだまだ自転車なら乗れるよ。自転車の面倒だけはみてやるよ」。 自転車が少し軽くなったような気がした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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