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中江兆民

2016年11月19日
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カテゴリ:中江兆民

1889年(明治22年)2月11日、民権派が要求して来た憲法が発布された。
憲法発布により、全国で奉祝行事が繰り広げられた中で、中江兆民は「通読一編ただ苦笑するのみ」と失望した。予想通りとはいえ、「民権これ至理なり」とした国民の権利があまりにも小さかった。植木枝盛はどう言ったか。現代文で紹介する。「この憲法で、果たして代議員による政府運営が出来るものなのか。果たして文明国として威張れるものなのか。私は今日に至ってもまだそのようには思えない」やはり天皇主権で人権保障や議会権限が弱いのが致命的であると思っていた。

もちろん彼らは戦う展望は、持っていただろう。中江兆民は既に二年前の著書(「三酔人経綸問答」)によって「恩賜の民権から回復の民権へ」というスローガンや、明治24年の「自由平等経綸」に「自由は取るべきものなり、貰うべき品にあらず」と言っていた。しかし、中江兆民はいう事は素晴らしいのだが、行動力には難があった。


明治23年7月1日、第一回衆議院議員総選挙があった。土佐の民権派は、ナンと全員当選を勝ちとった(植木枝盛や片岡健吉など)。中江兆民でさえ、大阪から出馬して当選している。選挙は民権派の大勝利だった。はずだった。11月29日、第一回帝国議会が開かれた。この議会で過半数を制していた民党は「政費節減」「民力休養」を唱え、予算委員会において政府の予算案削減を審議して政府と真っ向で対決した。しかし、議決の前に「土佐派」と呼ばれる議員が政府との妥協に回って民党の攻勢は挫折した。憤慨した中江兆民は「無血虫の陳列場」を発表して議員を辞職してしまった。気持ちはわかるけど、中江兆民は結局彼を選んだ選挙民を裏切ったと私は思う。


第ニ回帝国議会は明治24年の11月26日に開会した。分裂していた民党は共闘を回復してこれに臨み、政府予算案の一割を超える削減を議決するなど、再び政府と激しく対決した。ここで政府は本物の「伝家の宝刀」を初めて出す。衆議院を解散したのである。政府は民党候補者の当選を阻止するために、選挙干渉を「決定」、品川弥二郎の指示のもとに地方官吏・警察官を動員して暴力による干渉を加えたために、全国で多数の死傷者が出た(買収じゃないのね)。選挙後、政府は厳しい世論の批判を浴び、品川弥二郎内相は引責辞職(当たり前)、その後松方内閣も瓦解した。

しかし、抵抗はここまで。第ニ回衆議院選挙の後の明治25年、植木枝盛は若くして急死する。明治27年日清戦争勃発。衆議院は膨大な軍事予算を満場一致で可決した。既に民党は「民力休養」「政費節減」の主張を放棄していたのである。

自由民権運動はこの時点で実質的に終わっていた。


遂に民権は国権に克てなかった。それはなぜか?ということは長く研究されておそらく立派な本が何冊もでていると思う。私の今回の発見はそれではない。国権が幅を利かす前の自由民権運動16年間で、もっと民権を伸ばす契機が何度もあったのではないか、ということである。それができていれば、日本の行く末も変わったのではないか、という問題意識である。
 
実は各論三本並びに、実際の旅の記録含めて、あと6回ぐらいは連載が続きそうだ。また、準備ができ次第再開したい。






最終更新日  2016年11月19日 22時20分40秒
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2016年11月18日
カテゴリ:中江兆民


民権派は弾圧されると、暫く大人しくして居たが、やがて反撃に出る。その一つが大同団結運動である(←これも現代と同じ)。


 1887年(明治20年)10月3日後藤象二郎は丁亥倶楽部を設立して有志の団結訴え、次第に大同団結運動の中心的指導者になった。政府は翌年2月に大隈重信を入閣させてその分裂を謀ったが、後藤らは東北・東海・北陸各地の遊説、機関紙「政論」発行により運動を拡大した。民権派も、板垣退助の分裂策動から学んだわけだ。



当時の日本の民衆には、日本の政治に対していくつもの不満が渦巻いていた。それを三つの要求にまとめたのが自由民権運動だった。

一つは条約改正問題である。不平等関税と治外法権は、支配層も認める外交的汚点である。民衆は、外国に対してきちんと物申せない政府に腹を立てていて、それを理論的に批判する民権志士たちを支持した。この力関係は、現在にもある。言い換えれば、日本の政治にとって、いつもウイークポイントは「外交」なのである。

話はずれるが、私は政府の外交失策をもっと追求すべきだと思う。一つは核兵器禁止条約。一つは世界で日本にだけ不平等基地問題を押し付けている沖縄問題。ここが、国民的な要求になれば、政府を追い詰めることが出来る。

あとのふたつは内政問題。
一つは知識人・民権志士にとって最も切実な問題。「言論集会の自由」である。
一つは、庶民にとって最も切実な問題。「税制の軽減」である。
この三つを誰がまとめたのか。私は植木枝盛だと推察しているが、確証がない。この頃、民権派と政府はものすごい「頭脳戦」をしている。

ともかくも民権派は明治20年10月29日、東京で諸県代表が会合、各地方から建白書を提出し、委員を上京させることを決定した。
「租税徴収ヲ軽減スヘキ事」
「言論集会ヲ自由ニスヘキ事」
「外交失策ヲ挽回スヘキ事」
世に云う三大事件建白運動である。
土佐では、県下全域の各階層が参加した最大規模の自由民権運動に発展した。上京した総代人や壮士たちの運動により、東京は騒然となった。


写真は中江兆民が援助した漫画雑誌「トバエ」に出たビゴーによる「土佐に気をつけろ」。土佐の動向を気にする伊藤内閣の面々である。


三大事件建白運動を受けて、政府は伝家の宝刀を出す。明治20年12月26日、建白運動の始まりからたった56日後、突如、保安条例を発して活動家を東京から追放し、危機を切り抜けたのである。このスピードは敵ながらあっぱれという他はない。

これによって、もともと東京に居た中江兆民は、活動拠点を大坂に移した。保安条例の退去命令を拒否して投獄されたのは、全員土佐の民権家だった。

その時に彼らが新しく作った「保安条例廃止の建白書」には、このように書いている。現代文に直す。「国家が滅亡しようという時に、これを傍観視することは出来ない。むしろ、法律で罪人となろうとも逃げて亡国の民になりたくない」。ほんのちょっと前(30年前)の安政の大獄では、先人たちは命を課して罪人となった。今はそうならない可能性が大きい。切腹の覚悟と比べたら、これぐらいはどうってことはない。というのが、彼らの気持ちだったのではないか。


彼らはほとんど明治22年の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄した。写真はその時の記念写真。二段目真ん中の幼顔の青年が、その後の土佐の民権運動をリードする片岡健吉である。






最終更新日  2016年11月18日 11時04分39秒
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2016年11月16日
カテゴリ:中江兆民



15年7月には、土佐では言論弾圧に抗して「新聞の葬式」も出している。これは稿を改めて取り上げたい。いわゆる「激化事件」は、この時期から自由党解党にかけて激化した。明治15年12月福島事件。首謀者河野広中が逮捕されたが、その数年後に土佐に来ている。明治17年の加波山事件では、首謀者が土佐に留学していたらしい。17年12月飯田事件、なんと植木枝盛が檄文を起草している。

急進派をコントロール出来ないということもあって、17年10月自由党は解散する。民主党が民進党になるが如く。解散したり、名前を変えたら、簡単にリセット出来ると思っているのか。もちろん、解散理由はこれだけではない。現代と違って、政府は団体へ自由に弾圧出来る。このまま合法的な活動は無理がきていた。資金面も尽きてきた。しかし諦めるのがあまりにも早すぎる。もっといろんな工夫は出せなかったのだろうか。


自由党が解党してから、21年の三大事件建白運動までは、主に「社会改良論」が運動の中心になった。植木枝盛はその趣旨の論説を28も書いている。世の中を根本的に変えるのではなくて、逐次改良して時期をみるという方法である。所謂、中江兆民「三酔人経綸問答」において、南海先生が述べていたことだ(と、ここまで書いてびっくりする。中江兆民と植木枝盛は犬猿の仲だと思っていたが、同じ時期2人は同じことを考えていた。むしろ、南海という言葉から中江兆民は植木枝盛の言論から学んだ部分があったのではないか)。注目すべきは女性運動の進展なのではあるが、それは稿を改めて取り上げる。






最終更新日  2016年11月16日 10時11分17秒
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2016年11月15日
カテゴリ:中江兆民

(自由党結成時の幹部)
自由党は憲法制定・早期国会開設・農民と商工業者の自由な発展を主張、地方支部設置、機関紙「自由新聞」発行、遊説活動を中心に活発な運動を展開し、広い支持を得た。


しかし、政府の弾圧・板垣洋行問題による幹部分裂と立憲改進党との対立、資金問題・路線対立などで困難に陥り、明治17年(1884年)10月、3年間の活動で解党した。立憲改進党も都市の資本家や知識人を基盤に支持を集めたが、1884年事実上の解党状態に陥った。

これは、まるで2013年の民主党凋落のようではないか!弾圧と分裂策動は、つまり日本の政治運動の常套手段であり、現在でも有効ということか。なんと、日本の政党は未熟なんだろう!



明治14年の政変から明治15年(1882年)の終わり、つまり板垣退助の洋行までが、自由民権運動への「弾圧と抵抗」が最も激しかった時期らしい。情報化社会の現代ならばいざ知らず、この時の社会の変転の激しさは、私の想像を超えていた。因みに、「板垣遭難」事件(岐阜演説の後に短刀で襲われた)は、15年の4月6日のことである。有名な「板垣死すとも、自由は死せず」は現場にいた「探偵」が報告したらしいが、かなり歌舞伎かかっている。今も昔も、こういう芝居かかった「流行語」をモノにするか、どうかは、その時々の情勢を左右するに違いない。たとえ、その半年後に板垣退助本人が自由党の半分近くが反対する三井出資の洋行に出掛けるという大馬鹿であることが分かったとしてでもある。






最終更新日  2016年11月15日 22時13分52秒
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2016年11月14日
カテゴリ:中江兆民


「明治14年の政変」とのちに呼ばれるそれは、1881年(明治14年)政府内の派閥闘争から起きている。国会の早期開設を主張する大隈重信と漸進論の伊藤博文が居た。そこに、北海道開拓使官有物払い下げ事件が起きて、マスコミが発達し始めたその頃の爆発的な衝撃でもって、「世論の政府批判」が沸き起こる。伊藤博文或いはその時の政府のブレーンは、つくづく天才的な対応をしたと思う。それは下手に対応を誤れば、フランスのパリコミューンに似た「民主革命」に発展する可能性さえもあったかもしれない。しかし、伊藤博文は「機先を制」した。憲法構想が固まる直前の10月12日、「詔勅」を発した。10年後の国会開設・憲法の欽定を宣言したのである。そして返す刀で、早期国会開設を要求して事変を起こし、国安を害する者は処罰すると警告したのである。いわば、民権派が渾身の一撃を降ろうとした直前に目くらましを打ち、胴を薙いだようなものか。さらに、世論に対しては払い下げ中止を宣言して、沸き起こりをいったん止めて、大隈重信とそのグループを政府から追放、ここに薩長藩閥の覇権が確立する。


自由民権運動の高まりとともに、高知県各地では懇親会が度々開催された。特に1880年(明治13年)から1884年(明治17年)がその最盛期だったと言われる。懇親会は民権家、青年、医師、芸人、商人などが発起人となり開催され、演説、旗奪い、牧狩りなどが行われた。(←おそらく娯楽として人を呼び込み、また政府からの目くらましも意図していた)懇親会には、「自由」と大書した旗や結社名を書いた旗を持った人々が多数参加した。


さて、明治14年の政変の時に、国会期成同盟は自由党の結成に踏み切った(写真参照。岡山にも山陽と美作に支部があったことがわかる)。しかし、自由党は、民権派全体を結集したものではなく、翌年政変で政府を追われた大隈重信を中心にして立憲改進党が結成された。また、同年政府支持をうたう立憲帝政党(福地源一郎)も結成された。

ここまでが、自由民権運動の第一期と言えるだろう。






最終更新日  2016年11月14日 18時01分15秒
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2016年11月13日
カテゴリ:中江兆民


さて、植木枝盛の戦略はどうだったのか。最初の大きな仕事は1877年、西南戦争参加に待ったをかけて、立志社建白書を起草したことである。建白は政府の失政を8項目に渡って指摘した上で、国会開設、租税の軽減、不平等条約改正、地方自治の確保、政商に対する保護政策反対などを要求したが、これは全国的な自由民権運動の基本的要求になった。/[^


特に地方自治を求めて、立志社は民会を県会、大区会、少区会の三種に系統化した。民会は地方自治の組織であると共に、民権派は少区会から大区会、土佐州会、県会と積み上げ、ついには国会を実現すると言う構想を持っていた。これらは、県令や政府の一篇の命令で挫折する弱点はあったが、発想そのものは非常に先進的だっただろう。


愛国社は1879年の大阪で開かれた第三会で東日本の結社が加盟し、全国的展開になった。これを期に国会開設運動が全国的に広がった。1880年第四会の時に加盟27社代表の他に50余の団体が参加し、愛国社とは別に国会期成同盟を結成、国会開設を求めた。期成同盟はやがて1881年の自由党結成を決定、運動母体は自由党に移行。この間に、国会期成同盟が各組織で憲法見込案を持参研究することを決議したために、全国で50余の憲法案が起草された。


あとで詳しく述べるかもしれないが、この時の民衆憲法の創造は、質量共に日本の民主革命の理論的な土台が最も高まった時なのかもしれない。明治12ー14年の民衆憲法の起草者たちの表を見ると、日本の草の根民主主義の、この時代の民衆の教養の高さが伺いしれる。一つは、野に放たれた武士階級の教養の高さかもしれないし、寺子屋に代表される武士階級以外の民衆の識字率の高さが反映していたのかもしれない。これらの草案は、1880年(明治13年)、国会期成同盟第二回大会で提起され、翌年の大会で検討される予定であったが、明治14年の大きな出来事で「まぼろしの憲法」に終わり、これ以降日本で憲法構想が本格的に論じられることは、1945年の敗戦後までなかったのである。






最終更新日  2016年11月13日 18時44分22秒
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2016年11月12日
カテゴリ:中江兆民

立志舎復元模型。



●自由民権運動とは何だったのか。実際は、「民選議院設立の建言」(1874年)から、第一回帝国議会の開会(1890年)までの、たった16年間だったことが、改めてわかった。現代で言えば、16年前は2000年だ。たったつい昨日のことだ。この情報社会においても、政治的激動は限られている。しかし、この時期の日本は違った。特に、土佐は日々激動だった。と、私は思った。

土佐の自由民権運動とは何だったのか。特徴は三つ。


(1)昨年SEALDsが起こると、あっという間にSEALDs北海道東北、東海、関西、沖縄が立った。また、高校生のグループも全国で立ち、ママの会も立った。その他、既にあった様々な在野の「市民運動」グループが立ち、集会をしてデモをした。「60年安保以来だ」「それよりも多い」などとよく言われたが、その大先輩が土佐にあったのだ。政治的グループは、古くから言えば土佐勤皇党などの尊皇攘夷運動からあるのかもしれないが、今はそれを分析する余裕がない。1874年愛国公党の設立と同時に、その拠点として誕生した立志社が最古参であり、最右翼である。びっくりするのは、立志社に導かれるように、土佐には雨後の筍(ウゴノタケノコ)と言っていいほどの「民権結社」が誕生しているのである。(写真参照)立志社などでは、ベンサムやミル、ギゾーなどの西洋書を教科書にした学校も開設していた。





(2)自由民権運動の戦略は、民衆を味方につける、そのために各地で演説会を開き、新聞で報道し、「民権歌謡」や「民権踊り」などを作って民衆にわかりやすいように宣伝をした。その動きは、現代市民運動も見習わなければならない。歌では「世しや武士」(安岡道太郎編)「民権田舎歌」「民権かぞへ歌」(植木枝盛作)などがある。また、民権家たちが考案した「米国独立の曲」などの民権踊りが1881年夏、鏡河原の納涼場で芸妓たちによって披露され盛んになったらしい。


(3)改めて、植木枝盛は凄い、と私は思う。植木枝盛は海外経験がない。しかし、文献のみで当時の「最先端」を「満遍なく」学び、それを咀嚼して、立志社やがては自由党の「戦略」を作っていった。中江兆民は、さらにそれらの世界観を飲み込んだ上で未来論を築く能力があったが、植木枝盛のような行動力はなかった。この二人が組んでいたならば、どうなっただろうかと夢想するが、それは無い物ねだりではある。







最終更新日  2016年11月12日 19時13分26秒
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2016年11月11日
カテゴリ:中江兆民
高知紀行 二日目 8月25日

みなさん、もうお忘れかもしれませんが、この夏私は高知を旅して中江兆民、ならびに自由民権運動の跡を訪ねる旅を決行しました。ここからあとは、いろいろ考えることがあって、おもに自由民権記念館で学び考えたことを、その図録をもとに紹介したいと思い、その準備のために時間をもらった。なかなか準備できなかったのだが、なんとか図録部分のめどはついたので、ここから7-8回ほど連載したい。書いてみてわかったのであるが、自由民権の歴史は、そのまま現代の市民運動の教訓の宝庫である。次第と展開してみたい。(ちなみに過去記事はカテゴリーの中江兆民の中にあります)


自由民権記念館は、1990年に開館した。その当初から絶対行きたいと思っていた。何故ならば、私の大学の卒論は(作文の域を出ない)中江兆民論だったし、大学卒業後に出版され始めた中江兆民全集も植木枝盛全集も「大人買い」したのだが、今現在に至るまで読んでいないし、頭の奥に関心だけはずっと置いていたからである。土佐のスーパースター坂本龍馬にほ、ほとんど関心がなかった。

自由民権運動とは何だったのか。ひいては、(日本にもしかしたらあったかもしれない)「平和と民主主義」の道は、あり得ないのだろうか。


昔の作文(卒論)の中で、微かに思っていたそんな問題意識に、刺激を与えてもらいたい。そんな想いもあったのかもしれないが、結局日々の生活やその他の運動に紛れて、ずっと後回しにして来た。本来ならば、4ー5日はここに居てそんなことばかりを考えながら過ごしたかったし、年初めの出雲行きの当初は真剣に高知行きを検討していた。ところが、年末年始は、ほとんどの博物館が休館になる。遺跡巡りが出来て古代出雲博物館が開館している出雲にせざるを得なかった。そんなこんなで、たった一日で博物館と旧跡を回らなくてはならないが、我慢出来なくて此処に来たのである。結果的に大いに刺激を受け取ることが出来た。フロアは、明治風に洋風階段に「自由」と「民権」を掲げている。テンションが揚がるが、写真撮影は此処まで。展示内容の撮影は禁じられているために、必要な処は図録から、或いは高知市内を歩いた時の写真から使いたい。


入る時に受付の女性から「先ずは二本の特別映像を見て展示室を回られることをお勧めします」と言われていた。午前中はこの記念館に籠る予定だったから、喜んで見させてもらった。一本目は「土佐と自由」二本目は「行動する思想家植木枝盛」だった。私はそれで大事な視点を教わった。それは同時に展示内容の前半部のまとめでもあった。



●土佐民権派のうち、板垣退助と後藤象二郎は1873年(明治6年)の「征韓論論争」に敗れて下野した政治家だったことである。これは三つの意義がある。


(1)民権派は派閥闘争に敗れた一方の勢力から始まったのである。つまり、政治勢力としては、始めから大きいものだった。


(2)また、征韓論論争に敗れた西郷隆盛と江藤新平(当初は民権運動に参加)は、その後「挙兵」という手段を採った。板垣、後藤、江藤、副島種臣、由利公正、岡本健三郎は、英国帰りの古沢迂郎、小室信夫らと共に1874年愛国公党の結成と「民選議院設立の建言」、つまり国会開設請願を提出する。建言の起草は古沢迂郎、副島種臣が手を入れた。「現政権は専制政府の官僚の手中にあり、その失政で国家は瓦解の危機にある」という問題意識。活路は「人民の参政権にあり」という提案である。これだけを見ると、どれだけ西洋の民主主義を学んだのか、まだ疑問が残る内容ではある。しかし、これにより日本は「賛成」「時期尚早」で、「東京日々新聞」や「明六雑誌」などで意見が闘わされた。この状態こそが、民主主義国家の創生だっただろう。

(3)1873年(明治10年)に西南戦争勃発。土佐士族の中にも、「呼応して武装蜂起を企てるべきだ!」という意見があったが、遂に土佐は立たなかった。これが、その後の日本の民衆運動の在り方を大きく規定したと思う。また、この判断には、当時新進気鋭の理論家植木枝盛の意見が大きく預かった、と記念館の映像は述べていた。詳しく知りたいが、今はその余裕がない。また、戦争終結後、土佐では実際に武装蜂起を計画していた者だけではなく、直接関わりがなかった片岡健吉などが逮捕された。明治政府が日本国民に対して、初めて牙を剥いた瞬間だったのではないか。






最終更新日  2016年11月11日 21時12分28秒
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2016年09月05日
カテゴリ:中江兆民

いったんホテルに帰り、チェックアウトして高知駅のコインロッカーに荷物を置きに行く。すると、駅前に巨大な三志士の像が見えて来た。NHK大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて作ったらしい。龍馬と中岡慎太郎と武市半平太である。山内容堂公は、これを見たならば言うだろう。
「維新の回天に労があったのは、龍馬は別として、こいつらよりも、私の方がよっぽど力を貸したはずだ‼」
しかし、容堂公は人気がないのである。

「龍馬伝」幕末志士社中という建物が駅前に出来ていた。博物館フェチとしては、(500円で若干高かったが)入らざるを得ない。


「龍馬伝」に使った龍馬の家のセットがそのまま展示されていた。高知市が買い取ったらしい。写真取り放題なのがいい処。
そんなにすごいとは思わないのだが、説明ボランティアのおばちゃんが居たので、いろいろ質問出来たのが良かった。龍馬の家は、わりと金持ちの武士の家だったらしく、中に小川を引き込んで水洗いなどをしていたらしい。


この縁側で、観てないけど大河ドラマの中では、竜馬たちが仲良く話していたらしい。


家は間取りが残っていたわけではないので、正確ではない。文献などから想像し、他の武家の家を参考にしながら作ったらしい。これは台所。
台所からは、上げ下ろしの出来る階段がしつらえていた可能性がある。


その上の部屋に龍馬が居ただろう。これは二階に上がった写真ではなくて、別に竜馬の部屋が作られてていた。

「今さっき、高知市内を歩いて来たのですが、ホントに昔の古い家がないですね」
「大空襲で一面焼け野原になって、家どころか文献もあまり残ってないのよ」
「道路は昔と比べてどうだったんですか」
「電車通りは、都市整備で道路を広げたけど、あとは昔のままだと思うわよ」
「普通城下町というのは、防備のためにかなり入り組んでいると思うのですが、はりまや町などは、なんか碁盤の目みたいだったんですが」
「そうかもしれない。山内の殿様が城下町を作る時に、馬の速駆けをしたいというので、県庁前の通りはなどは真っ直ぐに作ったみたいよ」
そうなんだ。とりあえず、道だけは、江戸時代を偲びながら歩けばいいということがわかった。


駅前から路面電車で、この旅で1番行きたかった博物館、自由民権記念館に向かう。


ここで8冊ほど本を買った。以降、もう少し本を読み込んで記事を書きたいので、レポートを暫く休みます。






最終更新日  2016年09月05日 18時22分29秒
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2016年09月04日
カテゴリ:中江兆民

山田町から300mほど南に行った菜園場町に横堀公園がある。その花壇のひとつにこういうのがあった。武市半平太の田舎にある生家を、市民が再現したものらしい。武市半平太は、維新の中で、言うなれば旧守派として罰された派閥の党首に過ぎない。しかし、何故か現代において非常に人気があることが、こんなものからでも伺えるのである。

 安政1(1854)年叔父島村寿之助と槍剣道場を開きました。その後一時江戸に出て帰郷後、道場の経営に力を入れ、藩からご褒美をいただきました。
 長州などの尊攘運動が激化する中、万延元(1860)年藩から剣術修行の許可を得て北九州の諸藩を巡歴しました。
 やがて、修業のため再び江戸に出て、大石弥太郎から尊攘運動の全国情勢を聞き、また木戸孝允、久坂玄瑞らと交流し刺激を受け、大石、島村衛吉、池内蔵太らと土佐勤王党を結成することを決め帰国し、200人余りの同志を集めました。(「土佐の歴史散歩」より)


武市瑞山道場跡記念碑




ただ、最近「幕末下級武士の絵日記」なる本を読んで知ったのであるが、忍藩(埼玉県上田市)という一つの地方の藩の武士でさえ、様々な若者がおそらく十数人規模で尊皇攘夷運動に影響を受け、政論を書いて蟄居させられるまで「流行」していたのである。驚きを禁じ得ない。その広がりは、例えば朝鮮拉致問題で急進的な政治団体と一部政治家が結びついている状態といえばいいのか。そして、それを支持する広範な国民がいるという状態。そういう時に日本人はどのように動いてゆくのか。拉致問題は少し問題が限定されすぎているかもしれないが、日本人が国論を二分するような運動に直面した時に、どのような態度を取り、どう動くべきなのか。尊皇攘夷運動VS開国運動もそうなのだが、自由民権運動VS明治政府の問題からも、観ることができるような気がするる。それは、私たちがこれからの改憲問題に直面するときに貴重なヒントを、この高知の土地からもらうような気がするのである。











菜園場町商店街を通り過ぎて、文化プラザカルポート前に運河が通っていて、運河公園に沿って、あるモニュメントがあった。高知でずっと行われている「マンガ甲子園」の第一回から24回までの最優秀賞を展示していたのである。私の琴線にひっかかったものだけを紹介する。どうやら、高校生らしく、あまりひねりすぎたり、ブラックすぎると最優秀賞にはならないらしい。


そこから西に歩くと、はりまや橋交差点の東側に到着する。はりまや橋観光バスセンターの隣に河田小龍の碑があった。洋学家で、坂本龍馬にも影響を与えたらしい。







最終更新日  2016年09月04日 06時22分40秒
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