自由民権運動の終焉 高知紀行(12)
1889年(明治22年)2月11日、民権派が要求して来た憲法が発布された。 憲法発布により、全国で奉祝行事が繰り広げられた中で、中江兆民は「通読一編ただ苦笑するのみ」と失望した。予想通りとはいえ、「民権これ至理なり」とした国民の権利があまりにも小さかった。植木枝盛はどう言ったか。現代文で紹介する。「この憲法で、果たして代議員による政府運営が出来るものなのか。果たして文明国として威張れるものなのか。私は今日に至ってもまだそのようには思えない」やはり天皇主権で人権保障や議会権限が弱いのが致命的であると思っていた。 もちろん彼らは戦う展望は、持っていただろう。中江兆民は既に二年前の著書(「三酔人経綸問答」)によって「恩賜の民権から回復の民権へ」というスローガンや、明治24年の「自由平等経綸」に「自由は取るべきものなり、貰うべき品にあらず」と言っていた。しかし、中江兆民はいう事は素晴らしいのだが、行動力には難があった。 明治23年7月1日、第一回衆議院議員総選挙があった。土佐の民権派は、ナンと全員当選を勝ちとった(植木枝盛や片岡健吉など)。中江兆民でさえ、大阪から出馬して当選している。選挙は民権派の大勝利だった。はずだった。11月29日、第一回帝国議会が開かれた。この議会で過半数を制していた民党は「政費節減」「民力休養」を唱え、予算委員会において政府の予算案削減を審議して政府と真っ向で対決した。しかし、議決の前に「土佐派」と呼ばれる議員が政府との妥協に回って民党の攻勢は挫折した。憤慨した中江兆民は「無血虫の陳列場」を発表して議員を辞職してしまった。気持ちはわかるけど、中江兆民は結局彼を選んだ選挙民を裏切ったと私は思う。 第ニ回帝国議会は明治24年の11月26日に開会した。分裂していた民党は共闘を回復してこれに臨み、政府予算案の一割を超える削減を議決するなど、再び政府と激しく対決した。ここで政府は本物の「伝家の宝刀」を初めて出す。衆議院を解散したのである。政府は民党候補者の当選を阻止するために、選挙干渉を「決定」、品川弥二郎の指示のもとに地方官吏・警察官を動員して暴力による干渉を加えたために、全国で多数の死傷者が出た(買収じゃないのね)。選挙後、政府は厳しい世論の批判を浴び、品川弥二郎内相は引責辞職(当たり前)、その後松方内閣も瓦解した。 しかし、抵抗はここまで。第ニ回衆議院選挙の後の明治25年、植木枝盛は若くして急死する。明治27年日清戦争勃発。衆議院は膨大な軍事予算を満場一致で可決した。既に民党は「民力休養」「政費節減」の主張を放棄していたのである。 自由民権運動はこの時点で実質的に終わっていた。 遂に民権は国権に克てなかった。それはなぜか?ということは長く研究されておそらく立派な本が何冊もでていると思う。私の今回の発見はそれではない。国権が幅を利かす前の自由民権運動16年間で、もっと民権を伸ばす契機が何度もあったのではないか、ということである。それができていれば、日本の行く末も変わったのではないか、という問題意識である。 実は各論三本並びに、実際の旅の記録含めて、あと6回ぐらいは連載が続きそうだ。また、準備ができ次第再開したい。