古代史最大の動乱といわれる「壬申の乱」
井沢元彦著「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」は(以下第一章 血風の峰 本文)は、次のような書き出しで始まっている。 真紅に染まった太陽が、山の陰から昇り始めた。山に囲まれた不破の関、後世、関ケ原と呼ばれた一帯を見おろす峰の上で、大海人(おおあま)は夜明けの空気を胸一杯に力強く吸い込んだ。壬申の年(672)7月23日のことである。(ついに、わしは帝に勝った)大海人は満足げにあたりを見回した。 大海人とは、この後に天武天皇になるその人である。壬申の乱に勝利した大海人がそこから20数年前のことを鮮やかに思い出すというこの場面から、一気にその当時に戻り、話は展開していく。物語は飛鳥時代、大化の改新の主役である中大兄皇子(後の天智天皇)が中足鎌子と出会う当たりから乙巳(いっし)の変、大化の改新、白村江(はくすきのえ)の戦い、そして壬申の乱に至るまでのことである。中大兄皇子(後の天智天皇)の異父兄弟として,実際は大海人の方が兄でありながら、中大兄皇子の弟とされ様々な確執や憎しみがあった。その兄・中大兄皇子からいいように使われて遂に20数年後に爆発したというのが壬申の乱であったと物語はいうが、作者も「私説」と書いているように実際はどうだったのかはここでは知ることはできない。しかし、そのフィクションもあるだろうこの小説を面白く読むことができて、古代史初心者として、さらにこの時代や人物に興味が深まった。「県民だより奈良」によると、今年、令和4年は西暦672年に起きた壬申の乱から1350年にあたる。天武天皇・持統天皇が「飛鳥・藤原」で国家の礎を築く出発点となった出来事としている。関ヶ原の戦いは、岐阜県不破郡関ケ原、慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の率いる東西両軍がこの地で戦った。その約1000年前、古代日本の命運を決める合戦が同じこの地で行われていたのだ。天智天皇亡き後の皇位を賭けて、吉野に挙兵した弟の大海人皇子は、尾張・美濃の軍隊数万を率いて、この不破の地に陣したのだ。叔父(大海人皇子)と甥(天智天皇の子・弘文天皇)の間で争われた、古代史上最大の戦闘だった。 「日本史の反逆者」を読み進む中で、当時の結婚の特異さが目についた。それは、一族を血縁で固めて、未来永劫に血族で国を統べていくという狙いがあったからだろうが、それにしても現代の考えからすれば異様と言っていい。もちろんそういうことは、中世の島津家の歴史の中でもその例にもれないことは、これまで何回も当ブログにも書いてきた。 今回「松本清張の日本史探訪」の中の「皇位を賭けた古代の大争乱 壬申の乱」を紐解いてみると、松本清張と梅原 猛(哲学者 「隠された十字架 法隆寺論」など多数の著書あり) 両氏の対談があり、その中でも皇室の女性についても概要次のような対話がある。 松本:当時の宮廷では、一人の女性がいろいろな男性と交渉をもつのは、普通のことでした。宮廷の結婚も、異母兄妹、伯(叔)父・姪が一緒になった。たとえば、天武天皇の妃には、天智天皇の娘さんが四人も嫁入っています。額田王がどれだけの才女かしれないし、また、どれだけの美人かわかりませんが、まさかその一人を争って壬申の乱が起こったとは思えませんね。 梅原:私は、額田王というのは、「万葉集」には三角関係が出てきますけれど、もう少し別の意味があるのではないかと思います。額田王というのは、初め大海人皇子、つまり後の天武天皇に愛されて、その妃となる。 ところで、大友皇子(天智天皇の子で後の弘文天皇)の妃が十市皇女(天武天皇と額田の間の娘)ですね。大友皇子と十市皇女の間には葛野王(かどのおう)が生まれる。そして葛野王が生まれてから、天智天皇はやっと大友皇子を後継者にすることを決意している。 つまり、可愛い孫の顔を見たら、もう天下を異父弟の天武天皇にわたすのが惜しくなって、子の大友皇子を天皇とする。そして、その後継者が、天武天皇の血を引く葛野王であるならば、天武天皇も了承してくれるというような思惑が、天智天皇にあったと思います。 しかし、このように大友皇子と十市皇女を結びつけたのは誰でしょうか。それはやはり額田王ではないかと思います。自分の前の恋人の間の子である十市皇女と、後の恋人の天智天皇の子の大友皇子を結びつける。そうすれば、天武天皇と天智天皇もうまくゆくであろう、そういう計算が彼女の中なあったのだと思います。ところがこの計算は狂ってしまう。彼女は持統天、あの意志の強い、誇りの高い天武の妃の存在を無視したことになります。私は壬申の乱は、その意味で、額田王の計算の狂いから生じたものと言ってよいと思います。 なるほど、自分の中で結論はでないが、梅原理論は納得のいくものだと思った。今回はこのあたりまでとします。 (ネットから借用した。系図参照ください)