Tくん 30の手習いで自動車免許取得する
M安全(株)の九州支店に転職し仕入れなどを担当する業務係となった私は、九州にある他の出張所からの商品を回して欲しいという要望にも応えなければならない事もあった。というのも九州支店は他の拠点よりも社員数や保持する商品も多く、常務の支店長がいることでもわかるように後に九州支社としても機能するようになるのだが、当時も九州全体の総まとめもやっていた。そのため、月に一回くらい九州の出張所から所長が集まって、本社の達示事項伝達や営業についての方策などについて話し合いが持たれていた。そういう中で同じ九州管内の所長などとも人間関係ができてきて、正直言っていい人ばかりではなかったが、いい人にも出会って次第に人脈もできてきて将来大きく助けてもらうようなことになる。 昭和44年29歳で転職した私は30歳にして車の免許取得のため自動車学校に通い始めた。そして、免許取得なったのは、昭和45年12月18日。二男の誕生日が同じ年の12月4日だったから3人の子供の親になっていた。まさに30の手習いそのものだった。運動神経の鈍い私は人よりも時間もお金もかかったが、これで将来への展望が更に開けたような気がした。 それから一年半後くらい経過した頃、いよいよ営業に出ることになる。私のテリトリーは北九州市の八幡西区から若松方面に行く周辺の工場や若松区の工場、それにまだいくつか炭鉱も残っていた筑豊方面であった。しかし、初めの頃、心配は車の運転のことが第一で営業は二の次という感じは否めない。国道3号線を走ると行き交う車が猛スピードで駆けぬける。小さな道路ではダンプカーが我が物顔で前から走ってくる。営業の引き継ぎでは私が運転をして、前任の先輩営業マンが助手席に乗って道案内をしてくれるのだが、さぞかし彼らは怖い思いをしたことだろうと後で思うことだった。 私のテリトリーの八幡西区から若松区にも三菱系のセメント会社と化学会社、日立系の会社、その他にも鉄鋼の会社など一部上場会社がズラリと並んでいる。筑豊にも三井系のセメント会社、衰退しつつあったとは言え三井漆生炭鉱、三井山野炭鉱、貝島炭鉱など錚々たる名のある企業が多かった。(筑豊の炭鉱のことについては当ブログの2013年4月7日に「筑豊炭田の思い出」と題してエッセイを書いている) 銀行でも営業経験のない私だったが、子供の頃は大人しいと言われた私が、その頃になると人と話すこともできるようになり、会話もスムースにできるようになっていた。 私達の仕事は安全に関することなので、大きな会社では安全課、そうでないところは安全の担当者がキーマンである。新規商品の売り込みは、殆どが先ず顔なじみの安全の担当者を訪ねて商品説明をし、そこでOKが出れば現場の担当者を訪ねて、次に資材課または会計係となって一つの商いは完結する。 (写真の地図は北九州市の八幡西部から若松区) (下の写真は八幡西区の三菱化学の夜景、ネットから借用) (下の写真は八幡の高塔山から若戸大橋と若松区を望む、ネットから借用) 引き継ぎも終わり、いよいよ独り立ちするようになりいくらか気持ちの余裕も出てくると、客先に向かう間の車中で聴くラジオも楽しみになってきた。そのことも当ブログ2013年4月2日に「ラジオと私」というエッセイに書いたが、面白い番組もあって楽しみながら運転をした。特に前記の筑豊方面に営業に行く火曜日は100kmくらい走るのでラジオは楽しみだった。営業での楽しみは昼食もその一つだったが、筑豊に行く日は田川市から飯塚市に抜ける201号線にある烏尾峠(通称はカラス峠)のドライブインで食べる「モツ鍋」だった。社内で食べる日は弁当持参もあったが、営業ではほとんどが外食であり、たまには安全の担当者に社内食堂に誘っていただきご馳走になることもあった。こうして、思い出すままに書いているが、この時代のことは手帳など一切残っていない。私の記憶ではこの頃から会社発行の「Safety Diary」に少なくとも主要な行事は書いていたのだが、全部廃棄してしまったようだ。逆にM安全を一応退社して鹿児島に帰って独立する昭和56年(1981)から今日までの約40年間分の簡単な手帳は残っている。 ⑩ (写真の地図は飯塚市を中心とする筑豊地区)