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2007年02月16日
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カテゴリ:福井城址あれこれ

越前町の小曽原(旧宮崎村)や平等(たいら=旧織田町)の丘陵地帯は、日本六古窯の一つ「越前焼」の産地として広く知られているところですが、この地域は越前焼だけでなく、いぶし瓦や石州瓦とともに江戸後期から明治期の3代瓦として名をはせた「越前赤瓦」の発祥地でもあったようです。17世紀中頃に生産された初期の越前赤瓦は、平等の丘陵斜面から窯跡とともに見つかっており、福井城跡や金沢城跡から出土した赤瓦の文様、焼き具合などがよく似ていることから、それらの城郭建築にも用いられたと考えられています。

越前赤瓦は、酸化鉄を多く含んだ越前土(鉄釉)を水と灰で薄めてハケで瓦に塗り、その頃は越前焼の焼き物と一緒に同じ窯で焼かれていたようです。耐寒性に優れ、紫がかった暗赤褐色の薄い釉がかかり独特の色調をおびているという。越前赤瓦の製法は現代では作ることのできない幻の製法ともいわれています。越前焼の産地で作られるようになった越前赤瓦は、江戸末期にかけて福井県内各地のほか、東北、北海道などの日本海側沿岸寒冷地にも普及していったと考えられています。鉄釉を水と灰で薄めて塗る製法は、江戸時代に入るとまもなく、他の焼き物産地から越前焼に導入され、ほぼ同じ頃に越前瓦にも応用されたようです。

越前焼の起源は、東海地方から越前町小曽原にやってきた陶工集団が、丘陵地に窯を造って生産を始めたのが始まり。その後、越前町平等の丘陵地に広がり、室町時代後期の頃には北陸最大の窯場に発展、この地域で焼かれたツボやカメ、スリ鉢などの越前焼は北海道から島根県までの日本海地域に運ばれていたようです。しかし、江戸中期の頃から生産量は減少、明治期を経て今日に至るのですが、この間、信楽や瀬戸など先進地の技術を取り入れながら、後継者の育成にも努めているところです。このような歴史の流れをみていると、日常雑器を中心とした越前焼が衰退する頃に越前赤瓦が発展していることから、城下町の建設、拡張ラッシュが続いたといわれる江戸時代に入った頃は、越前焼産地の産業転換の時期でもあったようにみえます。






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最終更新日  2007年02月23日 09時24分24秒
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