5907470 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

モノスキー日記

モノスキー日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Calendar

Recent Posts

Archives

2024年05月
2024年04月
2024年03月
2024年02月
2024年01月
2023年12月
2023年11月
2023年10月
2023年09月
2023年08月

Profile

よきん

よきん

Category

Comments

 梨木健太郎@ Re:7号食※ を再開しました。(11/07) だれも見んし、コメントも他にはないね。
 中居正郎@ Re:7号食※ を再開しました。(11/07) びっくりのアップ~だれもみんよね。
 よきん@ Re[1]:緊急事態宣言 !!(10/19) 銀線名人ぬかしんぼさんへ (^O^)ア(^○^)ハ(…
 よきん@ Re[1]:緊急事態宣言 !!(10/19) 銀線名人ぬかしんぼさんへ 一年近く返信…

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

2008年05月19日
XML
カテゴリ:人間交流
森岡まさ子様を偲んで、講演録をお届けします。
2003年12月に尾道市倫理法人会のモーニングセミナーに
来られた時のものです。

会場:尾道国際ホテル 時間:6時~7時

☆━━━…………‥‥‥ご講演‥‥…………━━━☆
テーマ「出逢いは宝」

●森岡まさ子(もりおか まさこ)プロフィール●
明治43年(1910)広島県甲奴(こうぬ)郡上下町に生まれる。
上下高等女学校、第3回卒業。戦前、新聞記者=森岡敏之と結婚。
その後、京都大学フォスコ・マライーニ氏の秘書を務める。
戦後、原爆症の夫を抱え〈広島県公認高等文化女学校〉を設立。
同校長として就任。戦後の混乱期に若い女性たちへ、夢と希望を与え続けた。
昭和34年(1959)広島県内初の民営ユースホステルを開設。
夫を亡くした後も経営を続ける。
昨年結腸の腫瘍摘出の手術に成功し、91才にして本を出版。
NHKテレビ「人間ゆうゆう」でも紹介されました。
平成14年 「エイジレス賞」を内閣官房長官から表彰される。



おはようございます。
大変な早朝にもかかわらず、素晴らしいですね。
お部屋に入ってこられる様子を見て、感激しました。
みなさん輝いておられますね。

倫理の皆様に、直にお会いできて感激しています。

本当は2,3時間いただきたいのですが、
時間のある限りがんばります。

わたしには、尾道はご縁の深いところです。
女学校のあとで、裁縫を習いに来たところです。

今日わたしが話すのは、93年生きさせていただき、
暗いトンネルばかりだった人生です。
わたしの人生のドラマを聴いていただいて、
その中からなにかを汲み取っていただければ幸いです。

前向きに頑張れば、いつか明かりが見えると思って、頑張りました。
でも、また暗いトンネルになることもあります。
気付いたら93歳です。そろそろ天国へ行くことでしょう。

いまがおまえの青春だと言い聞かせながら、生きています。
感動の毎日ですが、必ずしも、うまくいく人生ではありません。

現在をどう活かして、残りの人生を楽しんでいくかお話します。
言葉におかしいところがあったとしても、
年に免じてお許し戴きたいです。

この尾道は、第二の故郷として懐かしいところです。
わたしは、上下町の出身です。

上下町は、小さな町ですが、幕府の天領として栄えたところです。
島根県の大田の銀山から、銀を大阪へ運ぶとき
1番始めに泊まっていく宿場町として栄えた町です。

田山花袋(たやまかたい)も何回も通ってこられた町です。
花袋の資料館もあります。

小さな町ですが、学問の町です。
教育熱心でしたので男なら大抵学校へ行きました。
わたしの母も、貧しい中で女学校へ行かせてくれました。

親に恩返しをしたいというのが念願でした。
2年のときに英語のコースと裁縫のコースの選択がありました。

裁縫はだれかにやってもらえるかもしれない。
英語はそうは行かない。
英語コースへ行ったらと母が言ってくれました。

呼ばれて子どもたちの前で話すことが多いのですが、
お母さんの言葉は大事ですよと言っています。
いまでも、母親のその言葉が忘れられません。

まったく田舎の私が、タイピストになるんです。
タイピストの免状を取りました。
なぜかというと、女性の仕事では1番月給が良かったからです。
親を喜ばせたいと思って、免状をとったのです。
英文のタイピストです。

大阪の大丸に勤めながら免状をとりました。
その頃にはもう結婚しておりました。

慶応大学を出て新聞記者をしていた主人がある日こう言いました
イタリアから素晴らしい先生が来られている。
京都大学で、レセプションをされるということでした。

お前に外国人を見せてやるといわれ、主人の後をついて行きました
当時は外人が珍しかったのです。

都ホテルには、いまでもそのときの額が残っています。

そこでは、家庭教師を望むと書いてあったのです。
主人に試験を受けてみたいとお願いしたのです。

主人は、上下の方言で
「やっちゅもない」といいました。
やっちゅもないとは、やっても無駄だと言う意味です。

それでも、試験を受けるのに、お金がいらないからと
頼み込みました。

結局13人受験したようです。
当時の主人の月給が、30円でした。
家庭教師代は55円。だんなより多いのです。

先生のところに部屋を戴き、ふたりで住み込みました。

始めてみた外国人がイタリヤ人でした。
実は、素晴らしい先生だということは知りませんでした。
フォスコ・マライーニさんでした。
とってもおえらい方でした。

先生からたくさんのものをいただきましたが、
勉強ほど大事なものはないことを教えていただきました。
先生は、英語、イタリヤ語、日本語も堪能です。

その後少しすると、日本の国に黒い雲がかかりました。
戦争です。
せっかくの出逢いなのに、別れがきました。

憲兵隊に大事な本を没収されました。
家族をつれ、収容所を転々としたあげく、
先生はイタリヤ帰られました。

広島の原爆で、主人が被爆しました。
上下の駅に迎えに行きました。

いとも哀れな姿に変わり果てていて、びっくりしてました。

頭は割れて血みどろでした。
火傷だらけの身体には、びっしりとガラスがささっていました。

びっくりしました。たくましい男でしたが、
これがわたしの主人かと思い涙が溢れました。
しかしそれでも軍人の妻かと怒られました。

病院によって、うちに連れて帰ろうとしたら、
診療所には、誰もいません。
お医者さんも、看護婦さんもみんな広島へ治療に掛けつけていて
誰もいないのです。

そこの人は、クスリも何にもないのだけれどと
言いながらそれでも、
なけなしのクレゾールとガーゼを下さいました。

さて連れて帰ったものの、寝させようもないのです。
痛がる主人からガラスを抜かないと行けません。

数日して悲しいことがありました。
近所の人が来て言うのです。

「奥さん、だんなさんまだ生きているの?」

なんとひどい言葉でしょうか。
こんな悲しい言葉を聞いたことがありません。

原爆にあった人がいると町中がだめになると
言う風評があったからです。

主人をなんとしても生きさせるんだと決意しました。

煎り豆(いりまめ)には花が咲かないといいます。
もういちど、煎り豆に花を咲かせて見せると
自分に言い聞かせて、がんばりました。

クスリもない、たべるものもない。医者もいない。

これがわたしの最初の本です。

煎豆に花が咲いた  (森岡まさ子・著)
http://www.joho-fukuoka.or.jp/kigyo/ipro/mama.htm

ぱぱを助けるために頑張りました。
夜になると激痛で殺してくれと言います。

その2につづく その2はこちら






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008年05月19日 12時27分47秒
コメント(2) | コメントを書く
[人間交流] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.