|
カテゴリ:報徳
報徳記 巻之二
【8】川副氏采邑青木邑の衰廃を興す 常陸國(ひたちのくに)眞壁郡青木村高八百五十石餘(よ)、幕府の旗下(きか)川副(かわそえ)某(なにがし)の采邑(さいいふ)なり。 往時(わうじ)公料(こうれう)にして野州芳賀(はが)郡眞岡縣令(けんれい)の管轄に屬(ぞく)す。 元禄度(ど)民家百三十戸、頗(すこぶ)る繁殖富饒(ふぜう)と稱す。 寶永(ほうえい)年中に至りて川副氏の采邑となる。 邑(むら)の西北川あり、櫻川と云ふ。 此の川を堰(せ)き、青木高森二邑(むら)の田水(たみづ)となす。 此の堰の左右(さいう)水底皆細砂(さいしゃ)灰の如くにして、更に岩石無し。 故に木石を遠所より運搬し、縦横大木を用ゐて建築すと雖も、大雨洪水至れば、忽焉(こつえん)細砂(さいしゃ)と共に流失(りうしつ)し、田水沽渇(こかつ)耕耘(かううん)を得ず。 公料(こうれう)の時に當(あた)りては破壊毎(ごと)に役夫三千餘人を諸村に課し、入費數百金を以て造築せり。 寶永(ほうえい)度以來は一邑(むら)の民力之を修築する能(あた)はず。 耕田の道を失ひ、民心放肆(ほうし)、良田(りょうでん)蕪頼(ぶらい)、怠惰、博奕(ばくえき)を常とし、戸々(こゝ)絶窮遂に四方に離散するに至り、民屋(みんをく)切近の田と雖も茫々(ぼうぼう)たる原野に歸(き)し、葭茅(かぼう)荻萩(てきしう)繁茂、狐兎斯(こゝ)に住す。 天明度野火茅(かや)を焼き、延(ひ)いて民屋に及び、之が爲に三十一戸灰燼(くわいじん)となる。 是に於て益々窮し、僅(わづか)に二十九戸を存(そん)す。 是も亦貧困支ふ可(べ)からず。 曾(かつ)て遊歴の者此邑(このむら)を過ぐるに茅中(ぼうちゅう)炊烟(すゐえん)の起るを見て一句を吟ず、曰く、 家ありや すゝきの中の 夕烟(ゆうけむり) と。 此(こ)の句を以て衰廢(すゐはい)亡村に等しきを推知す可し。 租税僅少、川副氏の窮も亦甚し。 邑(むら)の里正(りせい)を舘野(たての)勘右衛門と云ふ。 性廉直篤實にして、大いに衰邑(いふ)亡地に至らんとするを憂ひ、再復の事を謀ると雖も貧村の力如何とも爲すべからず。 櫻町陣屋を去ることを僅(わづか)に三里、故に先生の良法三邑(いふ)再興の事業を聞き、邑(いふ)民を會(くわい)し、諭(さと)して曰く、 我邑(わがむら)の衰頽(すゐたい)既に極る。 是獨(ひと)り人民の力足らざるのみに非ず。 櫻川の堰破壊、闔村(かふそん)の用水を失ひ、水田悉く蕪没(ぶぼつ)に歸し、戸戸(こゝ)耕耘(こううん)を得ず。 故に衣食缺乏(けつぼふ)、往々家産を破り流民となる。 今にして衰廢(すゐはい)、再興の道を謀らざれば、八百石の邑(むら)亡滅に至(いたら)んこと必(ひっ)せり。 然りと雖も、愚(ぐ)不肖(ふせう)貧弱の力を以て何事をか成し得んや。 曾(かつ)て聞く、 物井村陣屋詰(づめ)の二宮先生、相模(さがみ)小田原候の命を以て櫻町に至り、數年にして三邑(いふ)を興復し、邑(いふ)民を安撫すること、父母の其の子を保(ほ)するが如しと。 其の事業誰か感動せざらんや。 我輩(わがはい)物井(ものゐ)に往(いっ)て再興の方法を歎願せば、先生は仁者なり、憐愍(れんみん)の處置(しょち)なしと謂ふべからず。 果して許諾あらば是の廢堰(はいえん)も擧(あ)ぐべく、荒蕪も開くべく、邑民(いふみん)の困苦をも免るべし。 然れども先生は他の誠(せい)、不誠(ふせい)を察観(さつくわん)すること明鏡の如しと。 故に懇願のもの純誠(じゅんせい)にあらざれば、百度(ひゃくたび)歎願すと雖も斷然許諾せず。 故に此の願の成否は先生にあらずして、當邑(たういふ)一同の一心にあり。 各(おのおの)の思慮如何んと。 邑民(いふみん)應(こた)へて曰く、 素(もと)より冀望(きぼう)する所なり、速に歎願せんと云ふ。 勘右衛門曰く、 我等の請願而己(のみ)にては、是相對(あひたい)の如くにして先生許容ある可(べか)らず。 地頭よりの依頼に非れば不可也と。 直(たゞち)に出都此の條(でう)を川副某(ぼう)へ具陳す。 川副氏大いに悦び、時の用役並木柳助(りうすけ)に命じ、直書(ぢきしょ)を以て依頼せしむ。 「補注報徳記」(佐々井典比古)にこういう。 青木村は、近隣10ヶ村とともに旗本川副勝三郎の所領である。 その仕法は、他領における最初の報徳仕法として顕著な成績をあげたが、その後、領主の分度が定まらないため、永安の道を確立することはできなかった。 仕法の嘆願は、文政11年(1828)から行われたが、天保2年(1831)の末、名主勘右衛門以下37人の連名で願書を出し、一同桜町に出向いて熱誠こめて嘆願し、その結果、茅の刈取り、屋根の修理となり、それが終ったのは天保3年(1832)2月である。 それから荒地の開発が急速に行われたが、この年の末に至るまで、領主からの依頼がなかったので、先生はやむを得ず、その夏、大夫と費用を出して堰の仮工事を行わせた。 天保4年(1833)2月に至り、並木柳助は領主の正式書状を添えて、村役人を引き連れて仕法を依頼した。 (ということは、報徳記本文では、 勘右衛門が「我等の請願だけでは、先生は許容されないだろう。領主からの依頼がなければならない」と川副氏に申し出て、川副氏は喜んで直書をもって依頼した となっているが、実に正式の依頼まで5年かかっているのだ。) ☆二宮先生語録(斎藤高行) 【26】わが道は天子の任であり、為政者の任である。 もとより小役人の任ずるところではない、 なぜかというと、国を興し、民を安んじ、天下を経営する道だからだ。 そうであっても、人々それぞれ自ら任じて行わなければならないことがある。家主の家督における、百姓の田畑における、などである。 要するに自分が主体となるものであれば、この道をよく行うことができるのだ。 【28】わが道は恕をもって要とする。 すなわち貧民の心を恕し、あるいは食べ物や農具を与え、馬屋などを与える。君主からみれば、すべて無用であるようだが、貧民において、すなわち死生存亡の係わるところであり、一日も欠くことのできないものである。 私の立てた無利息貸付法も貸主には無用のようだが、貧民がこれを得れば、一日も欠くことができなかったものを全うし、その生を安んじ、その家を保たせる。その用たるや、何と大きいことか。 【29】ある人が、わが道を迂遠だとして、私を迂翁だと言った。 私は笑って答えた。 「わが国は万古に存して、しかしてわが道は万世変らない。 万古に存する国にあって、万世変らない道を行う以上、これを自己一代の短さに比べて迂遠などといっておられようか。 今日道がおこなわれなくても、気にすることはない。 なぜならば、これは天照大神以来行われてきた道であって、国を興し、民を安んずるには、このほかに方法はないからだ。 それに人は人生60などというが、もっぱら今日の暮らしを営み、現世のことのみをはかって、後世のことを考える者はいない。 しかし朝飯を食べれば、すぐ昼になり、昼を炊いたかと思えば午後になり、今日はたちまち明日になり、今年はたちまち来年になり、父祖の代はたちまち子孫の代となり、100年もまた一瞬にすぎないのだ。 わが開墾法では、一両の金によって荒地一反歩を開き、その産米を一石として、半分を食べて半分を譲り、繰り返して開発してやまなければ、60年の総計は、開田24億548万2253町歩に及ぶのである。 行わないなら仕方がない。行う以上、わずかな一生にくらべて、どうして迂遠だなどと言っておられようか。 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。 私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。 イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。 1 決して怒ってはいけない。(p.20-21) 2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20) 3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20) 4 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19) 2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメ p.21 「絶対に人の悪口を言っちゃダメよ。 あなたが自分の部屋にポツンと一人でいる時でさえも、人の悪口をいっちゃダメ。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.29 20:31:03
[報徳] カテゴリの最新記事
|