松尾芭蕉と大津 辞世 (その三十六)
浪速に入った一行は、先ず若い酒堂の家に留まり諭してみたが、 彼は受け入れず、 そのうち、不意に行方をくらましてしまい、 この心労が差し障って体調を崩し、 やむなく之道の家に移ったものの、十日夜には発熱と頭痛を訴えた。 二十日に回復し、四天王寺近くの夕日丘「車要亭」の俳席にも現れたが 直に辞し、主催者の芝柏(しはく)へ託し、芭蕉不在の中行なわれた句会に 「此道や行人なしに秋の暮」や,此の病で、仮屋に臥せって苦吟した 「秋深き隣は何をする人ぞ」の句が詠みあげられた。 二十九日夜に下痢がひどくなり、容態は悪化の一途を辿り、之道は 京都の去来に使いを出し、 大津の医師木節を初め 向井去来、其角、支考や乙州ら主だった門人も 駆けつけ、 十月五日に南御堂の門前にある、大旦那花屋仁左衛門の 貸座席に移り、門人たちの手厚い看病を受けた。 この騒動の発端でもある弟子の之道は 八日住吉大社の四所に詣で、師匠の延命を祈った処、その介あって 深夜、 からからと硯の音が聞こえたので之道の弟子の呑舟が介抱に侍ると 「病中吟」と称して 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(たびにやんでゆめは枯野をかけまわる) と詠んだが、病の床で尚推敲し支考を召し、あれこれ思案した事だった。 十日には遺書を書き、十二日申の刻(午後四時頃)松尾芭蕉は医師の 木節以下、弟子たちの見守る中 息を引き取った。 十三日弟子共に守られ大阪から船で淀川を遡り伏見港迄運ばれ 伏見から陸路で 大津の義仲寺に遺骸は届けられた。 智月や乙州の嫁から泣く泣く死装束や死化粧を手厚く施された後、 荼毘に伏され、 翌十四日 遺言に従って木曽義仲の墓の隣に 葬られた 。 身内同然に諸役請負する近江門人衆十二名の内、大阪まで出向いた門人を含め八十人、別途 三百有余人が会葬に参列したという・・ 尚表には芭蕉翁の三文字を記し背には年月日時を記し、 塚の東隣に芭蕉一本を植えた事だった。