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2015.08.17
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入間市の豊岡高校校門の並びに小さな石碑がある。

その隣に「彰義隊遭難者の碑」と案内板があり石碑の説明が記されていた。

「えっ 彰義隊?・・」毎日ウォーキングをして校門の前を歩いていたのに気付かず 思わず 声が出た。




彰義隊といえば徳川慶喜の警護を目的として一橋家家臣である渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊のはず、

なぜ入間市に「彰義隊遭難者の碑」があるのだろうか。

「彰義隊遭難者の碑」には 軍資金の調達に訪れた13名の隊員が偽彰義隊と間違えられて村民によって殺害されたと記載されていた。

戊辰戦争は私たちの住むこの地でも起こっていたのですね。

「飯能戦争」です。

そこで調べることにしたのです。





徳川慶喜は大政奉還後江戸城を去り、上野東叡山寛永寺に入り、大慈院の一間でひたすら恭順していた。慶喜は朝敵となることを避けたかったのですね。

なぜならば 慶喜の母は徳川斉昭の正室吉子女王です。有栖川宮織仁(おりひと)親王の第12王女なのです。 慶喜には宮家の血が流れていたのです。



寛永寺の貫主には輪王寺宮(北白川宮能久親王)が 継承していました。

輪王寺宮は慶喜の請願を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁(たるひと)親王を駿府に訪ね、新政府に徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行っています。

しかし 東征中止要請は熾仁(たるひと)親王によって一蹴されました。



熾仁(たるひと)親王は 17歳の時に孝明天皇の妹・和宮内親王と婚約していましたが、公武合体により和宮は 徳川家茂と結婚してしまいます。

熾仁(たるひと)親王は徳川幕府を打倒することに執念を燃やしていたとしても不思議ではありません。


慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、有栖川宮熾仁(たるひと)親王に率いられた新政府軍が東征を開始します。

慶喜は寛永寺を離れ生家の水戸へと逃れていきます。

慶喜にとって実家の有栖川宮家が、徳川将軍家追討軍の総大将とは なんと歴史の皮肉なのでしょうか。




江戸では 輪王寺宮が寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれてしまうのです。

輪王寺宮は孝明天皇の義弟であり、明治天皇の義理の叔父にあたります。

いっとき 輪王寺宮を東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がありますね。

二人のミカドが存在すると ニューヨークタイムズが報じていました。

ということは あの華原朋美さんと“両天秤”かけた憲法学者 竹○恒泰氏が皇位後継者となっていたかもしれません。(笑い)




それでは なぜ彰義隊は飯能にやってきたのでしょうか。

頭取の渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)と副頭取の天野八郎との仲が良くありません。


渋沢成一郎は 慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移したため、「上野の山で戦いを起したならば、江戸中が灰になってしまう」として、上野からの撤退を主張します。

武闘派の副頭取・天野八郎は「何としても江戸市中に踏みとどまって、新政府軍に一泡ふかせてやるのだ」と主張するのです。

渋沢成一郎は彰義隊を脱退しました。

頭取が辞めちゃったのです。




話を 渋沢栄一に当ててみたいと思います・・・・。


慶喜が将軍になったころ渋沢栄一は一橋家に仕えていましたので自動的に幕臣となっていました。

慶喜は1866年パリ万国博覧会に弟 徳川昭武をフランスに派遣することを決め、随行人の中に渋沢栄一がいたのです。

大政奉還、江戸城無血開城、慶喜の恭順は パリで知ったのでした。




さて 渋沢成一郎は彰義隊を脱退後、尾高新五郎(従兄弟)等有志とともに新たに「振武軍」を結成します。

慶応4年(明治元年=1868年)5月1日 

上野を離れて田無村(東京都田無市)に集まる。

振武軍は田無村の西光寺を本陣とし、光蔵寺、太子堂、観音寺に屯集する。

振武軍は軍資金調達のため「徳川氏再興」として献金の額を短冊に書いて周辺の村々に回状を廻し多額の献金を強引に要求するのです。

所沢組合 726両 田無組合村々 730両 拝島組合村々 500両
扇町谷組合村々(入間市)720両      日野組合村々 500両
府中組合村々 500両 の献金を受け取りました。
どの組合も要求額よりは少なく納めたのでしょうが、それでも3500両近くの金が集まったことになります。



入間市「彰義隊遭難者の碑」には慶応4年3月29日に軍資金調達に訪れたと書かれています。

彰義隊の本体が来る1か月近くも前の出来事なので偽彰義隊と間違えられても仕方がなかったのかもしれません。

入間市博物館に行って「入間市史」を見せていただきました。

私は刀を差している13名の武士が なぜ村民に殺されたのか 知りたかったのです。

「入間市史」には「振武軍」のことは書かれていましたが「彰義隊遭難者の碑」についての記載はありませんでした。


慶応4年5月12日 
振武軍が田無村を引き払い箱根ヶ崎に移動。


慶応4年5月15日 上野戦争 始まる。
上野の戦い当日振武軍は上野へ向かいますが彰義隊敗走の知らせがあり田無に戻る。


慶応4年5月16日 
上野戦争で敗退した彰義隊の一部が合流。


慶応4年5月17日 
振武軍と彰義隊の合計1,500から1,600人が田無村を出発し飯能に向かう


慶応4年5月18日 
武蔵国入間郡飯能の能仁寺に本営を移す。武蔵一国には一橋領の村が多く存在していた。

能仁寺を本陣とし、観音寺、智観寺など5つの寺に分宿して、食糧は各寺で賄うよう命じる。


慶応4年5月23日 飯能戦争 始まる。

黒須(入間市)朝7時頃、政府軍の姿を見つけ、小銃を打ちかけ戦の火ぶたがきられた。

飯能市・羅漢山に立て篭もった振武軍に対して、新政府軍は聖天林(飯能第一小学校の裏手)に大砲及び小銃合わせて200丁程を据えて、総攻撃を開始した。

戦いは午前中で終わった。

脱走兵は諸方へ散乱していった。


兵火のために、飯能村の町並みは焼失。黒田候の菩提寺能仁寺・観音寺、中山候の菩提寺中山村智観寺・真応寺は兵乱のため焼失した。

これが「飯能戦争」の顛末です。



明治維新は日本の歴史の中で、鎌倉幕府を倒して建武の新政を行った後醍醐天皇以来の最大級の変革でした。

慶喜が政権返上していたにもかかわらず、王政復古の大号令が発せられたのです。

討幕の大義名分が失われていたのですよ・・・・・・あくまで 倒幕ありき クーデターですね。

15歳の明治天皇の名により天皇親政を宣言しています。

変革には「痛み」 を伴います。

それは遠く江戸から離れていた所沢・狭山・入間そして飯能の人々にとっても無縁ではなかったのです。



羅漢山はその後 
明治16年4月18日に、山麓で行なわれた近衛兵春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監したことにより、天覧山と呼ばれるようになりました。



彰義隊のその後・・・。

渋沢成一郎等は榎本艦隊に合流し箱館戦争に参戦します。

「先立つモノは金でしょ」とばかり、先陣争いに参加せず松前城の金蔵から金を持ち出しています。

渋沢は彰義隊にいた頃から江戸の豪商などを訪れ、強引な金策をしていたといいます。


彰義隊は、渋沢派の50人「小彰義隊」と旧天野派180人「大彰義隊」とにまたも分裂してしまうのです。


渋沢成一郎は箱館戦争終戦直前の5月15日に旧幕府軍から脱走し、湯の川方面に潜伏していましたが、6月18日自ら出頭投降しています。

上野戦争・飯能戦争・箱館戦争と多くの彰義隊員は戦死しているのですよ。

その後 東京の軍務官糾問所に投獄されますが明治5年に赦されました。

明治時代には、渋沢栄一の仲介で事業を起こし事業家として大成しています。

大正元年8月30日、75歳で死去しました。

調べていくうちに渋沢成一郎には 武人としては まったく共感を得なかった。




突然ですが 私は 土方歳三が 嫌いなのです。 

私より チョットだけいい男だからという理由で 嫌いなのではありません。

「今一度日本を洗濯したい」と言った坂本龍馬の仲間たちを切り殺したからでもありません。

なぜかというと 旧幕府軍として 敗戦に次ぐ敗戦にも関わらず ぶれることもなく。

時代の変化に 逆らいながら、箱館戦争まで いって 最後の最後まで 脱走もせず 新撰組 副隊長として 先頭に立って 死んでいったのですよ。


あまりにも かっこよすぎるではありませんか・・・・・。 


これが 「武士」?というものでしょう・・・・




夢は稔り難く

敵は数多なりとも

胸に悲しみを秘めて

我は勇みて行かん

道は極め難く

腕は疲れ果つとも

遠き星をめざして

我は歩み続けん

これこそは我が宿命

汚れ果てし この世から

正しきを救うために

如何に望み薄く 遥かなりとも

やがて いつの日か光満ちて

永遠の眠りに就く時来らん

たとえ傷つくとも

力ふり絞りて

我は歩み続けん

あの星の許へ

(福井峻訳「見果てぬ夢」<騎士遍歴の唄>)

(1985刊 「ラ・マンチャの男」パンフより)



安西節雄





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Last updated  2015.08.17 08:43:07
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