ふたつの尾灯
ローリング・ストーンズに『Stripped』というアルバムがあると知り、きょう図書館で探したらあった。 もちろん借りてきた。 1曲目に『Street Fighting Man』、次いでボブ・ディランの『Like a Rolling Stone』が入っている。 ……なぁんてことに視線が行くようになったんだなと思い、ひとりで笑ってしまう。 すでに多くのひとがよ~く知っていることだろうにいまさらここに書くまでもないよと思うからで、しかし、まぁ、ぼくにとっては2010年1月末の土曜日に起きた重要事でもあるのだ。 ざっと聞いて、まず『Love In Vain』が気に入った。 ことに「列車が駅を出て行き、最後部にふたつのライトがあった(The train left the station, it had two lights on behind)」というリフレインがいい。 連想は1972年冬の秋田に跳ぶ。 横手からかなり西へ入った村での別れの場面である。 最終バスに村の男たち数人が乗り込み、それぞれの家族が見送る。 男たちは東京など大都市へ出稼ぎに行き半年先まで帰らないのだ。村では長いあいだ繰り返されてきた別離の場面だが、東京しか知らないぼくは「6ヶ月もの間、父親や兄弟や恋人がいなくなる生活」を想像してしまう。 停車時間は長くない。 すぐに発車時刻となり、窓を隔てて手を振り合う間もそこそこにエンジン音が高まると大きな車体がゆらりと揺れた。道の両側は田んぼで、停留所の明かりは周囲10メートルほどにしか届かない。 バスは闇に吸い込まれていく。 真っ赤な尾灯がふたつ、だんだん遠ざかりながらもなかなか消えない。 まさに春日八郎のヒット曲『赤いランプの終列車』を思うけれど、バスでの別れはより生々しく、情緒が混じり込む隙間を許さない。 そういう意味ではローリング・ストーンズの『Love In Vain』も同じことだが、遠ざかりつつ消えて行く後尾のライトを見つめる歌詞は両者に共通している。 で、ぼくは、こういう場面にかかわるとかならず、秋田(だけではないけれど)の冬に繰り返されているバスの別れを思い出すのだ。 そのころぼくは、岩波映画製作所の契約助監督として全国の過疎状況を取材するドキュメンタリー映画を作っていた。演出は秋山矜一さん、撮影が川島安信さんで、スタッフの総勢は4人、ときに5人。機動性重視の少人数で全国を駆けめぐるロケを続けていた。 横手から入った村の名はなんといったかなぁ。 記憶の奥からは「黒川村」とか「岩の沢」といった地名が浮かんでくるのだが、地図で見ると羽越線の駅に近く、横手から入ると遠すぎる気もする。また、このロケ中に羽越線を利用したのはたしかだから、もしかすると西から入って取材を重ね、最終的に横手へ出たのかも知れない。 ところで『Love In Vain』の歌詞を追うと、つぎに「the blue light was my baby and the red light was my mind」となり、ふたつのライトのひとつは「青」で去っていく彼女のありようを、もうひとつの「赤」は私の胸の内を表していると歌われる。 そうして「私の愛のすべてはむだなんだぁ(All my love's in vain.)」となっていく。 聞いていて、そういった歌詞に引きこまれたなと思う。 同時に出だしのギターやら途中で短いソロ演奏のあるサックスがすばらしく、身を乗り出す感覚にとらわれる。 じつにもう、なんともいえず、いい。 図書館へ行く前、京王八王子の駅前まで書道の練習に下北沢まで行く蓮太郎くんと一緒にバスに乗った。 そのときの会話で彼が15分でも早く行きたいといい、何か特別な理由があるのかと聞くと「15分あれば1枚書けるじゃないか」と答えた。 なかなかいい考えであり、かなりいい回答だった。 しばらくあとで、仕事を終えたかみさんも書道教室へ。 ただ蓮くんはバイトがあるので先に退出、かみさんとは会えなかったらしい。 ぼくは陽くんと、かみさんが作っておいてくれたロールキャベツの夕食。 肉とキャベツをふんだんに用いたロールキャベツの味は絶品だった。