カテゴリ:日本経済
バブルを考える(77)
メガバンクの再編 長銀と日債銀の破綻認定という強い処理に、今までのソフトランディング路線からの方針転換を嗅ぎ取った金融界には、激震が走りました。 改革即ち不良債権処理のスピードを上げないといけないと、震えあがった金融界は、2度目の資本注入を願いでます。その額も98年の横並びの2000億円ではなく、1兆円規模の思いきった申請、注入になりました。 資本注入を受けて、自己資本に余裕の出来た分だけ、思いきった不良債権の処理が出きるからでした。こうして相互に不良債権の足枷から、いくらか自由になった金融界は、業界再編に走り出しました。 99年1月には、三井信託と中央信託が合併で合意し、同年夏には、富士・第一勧銀・興銀(みずほ銀行)が統合を発表、さらに住友とさくら(三井住友銀行)が合併を表明、三和・東海・あさひも事業統合(UFJ銀行)を表明(あさひは後に離脱し、大和との合併に切りかえる)しました。比較的不良債権のしがらみの少なかった東京三菱を加え、大手行は四つのグループに再編(後,東京三菱とUFJが合併し、3メガバンクとなる)されました。 しかい、日銀のゼロ金利政策による超金融緩和と、ITブームの到来によって、一時的に株価が回復すると、銀行の経営規律は再び低下してしまいます。 2000年4月に、ITブームが突然の終焉を迎え、株価が再び下落すると、再び金融界は先送りに走ろうとやっきになります。政界をまき込んだ圧力を駆使して、2001年4月に予定されていたペイオフ(一定額以上の預金の支払い保護の廃止=預金の全額保護の廃止)の実施を先送りすることに成功します。しかし、この措置は,日本の改革姿勢の後退と受けとめられ、外資による日本売りを加速する結果に繋がりました。 モラルハザードは金融界と債務者である一部産業界に、猛烈な勢いで蔓延しました。根本的な引当不足が改善しない状況が、不良債権の根本的な処理を遅らせ、それがさらなる資産の劣化を生むという、負の連鎖に陥っていたのです。ここに金融機能はさらに低下し、産業界は過剰な負債と設備を抱えて,苦悶する状況になりました。危機は増幅されたかのように見えました。 この状況を冷静に反映していたのが、株価でした。まさに株価は経済の鏡でした。98年に12000円台に落ちた日経平均は、2000年に一時20000円台を回復したのですが、そこから下落に点じ、01年9月には10000円を割り込むところまで、下落したのです。 ここにいたって、金融界頼むに足らずと、歯を食いしばって自力での再建の道を選んだのは、国際競争の荒波にもまれながら、頑張ってきた産業界の一部でした。狭い国内に閉じこもり、護送船団行政に保護されてきた業界は、その筆頭の金融界を含めて、ここでも取り残されていったのです。まさに自業自得というべき状況がそこにありました。 続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.12.24 13:11:18
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