カテゴリ:日本史
クロニクル 教育勅語発布
1890(明治23)年10月30日 この日、明治政府は「教育勅語」を発布しました。124年前になります。 自由民権運動の盛り上がりは、国会開設の約束でかわしましたが、明治17年の秩父事件では、秩父の農民達がいとも気軽に、「怖レナガラ、天頂様ニ攻敵スルカラ、加勢シロ」と近在農民に呼びかけていたことが伝えられ、政府の魂胆を寒からしめました。 徳川270年の支配すら、あっけなく倒されたではないか。ならば、僅か17年の天皇の政府くらい倒すのは簡単だ。これが秩父農民の考え方でした。こうした農民層の受けとめ方は、全国的に共通します。そのことに気付いた政府はあせりました。 これは放置できない。天皇を敬う心を教え込み、天皇制イデオロギーを社会に浸透させなければならない。こうして考えられたのが、明治15年に発布されていた軍人勅諭の積極活用であり、この日制定された教育勅語の活用でした。学校と軍隊で思想教育を徹底しようというのです。 勅語は、親に孝,主君に忠...などの標語を並べ、「日本は天皇を父とし、皇后を母とする家族国家である」とする事によって、忠と孝の間の相克を取り除いたのでした。 そして、勅語の徳目を一つ一つ学習する場が「修身」の時間でした。歴史(国史)の時間では、歴代天皇の名を全て暗誦することから始めて、天皇の善政と、国民への慈悲の姿勢のみを学ぶことによって、ここでも天皇のあり難さを子ども達に刷り込んだのです。勿論南北朝の抗争など、天皇位を巡る皇族間の争いなど、天皇の名誉に関わることは、教科書ではカットされていました。皇国史観によって脚色された歴史教育です。 幼い内に刷りこまれる天皇絶対のイデオロギーは、そうした子ども達が親になり,社会の中心になるにいたって完成します。天皇制国家の支配構造は、こうして日露戦争の勝利後、明治末には完成し、いつしか、天皇は日本国民の父といった位置付けから、現人神にまつりあげられていきました。1番困っていたのは、天皇その人だったのかもしれないと、この頃は考えるようになりましたが...。 身近の「拉致」の国の、「将軍」様のやっていることは、明治国家版、国民思想教育をそっくり真似しているように思えます。そう考えると、他人事でないような...。 それにしてもひどい話でした。国民思想教育の先兵が教育勅語だった事実は、忘れてはいけないことのように思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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