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テーマ:アメリカ外交史(232)
カテゴリ:米外交史
▼証言へ
家の中に再び侵入しようとしながら、男はわめいた。 「殺してやる。中に入れやがれ。俺を傷つけたな。お仕置きしてやる」 男は場所を移動しながら、隙間という隙間にナイフを突っ込んでは、無理やり手を突っ込んで窓を開けようとする。家の中では、チャウはもう手がつけられない状態となり、恐怖で震えて縮こまっていた。マークはベッドに隠れた。モニカは怯えながらも、外のわめき声が聞こえないよう弟の耳を手で押さえて、弟を守ってやろうとしていた。 ようやく救援隊が到着した。男はそれに気づいて逃げ去った。 救援隊は6~8人の警官と、救助医療班の人たちであった。ロレンツはナイフを手放すことができないまま、ただ茫然と座っていた。現場にやってきた担当官のスティーブ・ズカスは、その光景を見て、かなりショックを受けていた。 子供たちには大きなトラウマになった。興奮状態が続いていたモニカに鎮静剤の注射が打たれた。ロレンツは子供たちを慰め、抱きしめた。 ズカスが聞いた。 「男の身なりは?」 ロレンツが答えた。 「陰毛とナイフよ」 8歳のマークが、隠れていたベッドから顔を出して言った。 「ママにとっては、ごく普通の日だったね」 この事件の後、ロレンツたちは空港近くのホテルに移動し、ハネムーン用のスウィートをあてがわれた。なんでも食べ放題であった。襲撃事件の捜査がただちに開始され、捜査班は男の血痕をたどった。数週間後、襲撃者が判明し、刑務所に送られた。警護を怠った警備係二人は、こっぴどくお灸を据えられた。 保護拘束期間中の後半、ロレンツは緑色のノートに、カストロとの出会いから、亡命キューバ人との関係、暗殺集団「オペレーション40」の存在、スタージスらのダラス行きまで、自分が知っているすべてを書き記し続けた。暗殺特別調査委員会に、後に証拠物件として提出された、あの陳述書である。 1978年5月1日付で、委員会で証言するよう召喚状が来たとき、ロレンツは逃げ出したい気持ちになった。だがもう、逃げ回るのはうんざりであった。覚悟はできていた。洗いざらいぶちまけ、このような逃亡生活にピリオドを打つつもりであった。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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