|
テーマ:東京 / 江戸(1184)
カテゴリ:古刹
2021/10/12/火曜日/曇り小雨
鶯谷から言問通りをまっつぐに東の隅田川目指して間もなく、の所から浅草な雰囲気がしてくる。 常は松下翁の私財で復活の、雷門から本殿行くのだろうが、そんな訳で西から行くと、手前には浅草寺病院なる立派な建物がある。これはお寺経営どうかは特段調べもしないけど。 右手に銭塚地蔵堂。謂れがいかにも落語のようで、ほろりと参る。それにしても真新しく立派で、寄進の大きなお寺であること、末のお堂まで。 そこを出るとすぐ左手に「カンカン地蔵尊」なるお堂。置いてある石で願い事を唱えながらこのお地蔵さまを叩くのだという。お地蔵様はそれですり減り、すっかり変わり果てた姿に。何やら申し訳なく思いつつ、そっと感謝を込めてカンカン音を立ててみた。右下から二つ目の画像 雷門と参道しか縁の無かった浅草寺も細部を見てみると面白い。浅草寺中の重要文化財2点の内、伝法院は公開かどうかは今回の訪問では判らない。もう一つの二点門、これを通り寺外に出ると、オヤ桜の花が寒そうに咲いている。日枝神社で見たものと同じ種類かしら。 この後の墨堤散歩の折、至る所にある桜案内板で「十月桜」ということを知る。 隅田堤は江戸時代からの桜の名所。震災と戦災で桜はすっかり入れ替わっている様子。この地区の人びとがどれだけ桜を大切に思っているか、つくづく理解できた。 さて、ことの始まり、鶯谷に習字博物館 を訪ねたのだった。そこから言問橋の向こうにある三囲神社←みめくりじんじゃ←を目指していたのだった。ここにある筈の石碑を見たかったが、社務所は無人で尋ねることが叶わなかった。 私的散歩ガイド、素白先生によると「昔の東京の筆匠たちが建てた秦の将軍蒙恬の碑」を見に、先生は戦後に三囲神社を訪ねている。「蒙恬は武人で、匈奴を討ち長城を築いた人」で初めて毛筆を作った伝があるという。そんな訳で筆匠たちは蒙恬を称える碑を建て年々集い将軍を祭った、その石碑を私も見たいとはるばる訪ねたのだった。 その碑文の盟主となったのが明治初めに日本橋通旅籠町で筆を商っていた、高木翁。先生曰く「この人はただの筆匠ではなく、文字の有る人であった。」そうだ。 文字の有る、とは 学問の有る よりも何やら奥ゆかしい。 幸田露伴住居跡も白鬚神社もじまん草餅もお預けなので、また次回のお楽しみとしよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.10.14 20:01:16
コメント(0) | コメントを書く
[古刹] カテゴリの最新記事
|