善悪相殺夢想論。
『装甲悪鬼村正』感想“善悪相殺”論考表題の通りである。当作品が描いた「善悪相殺」という概念について、自分なりに纏めた上で見解を述べる。世間がやけに好戦的な人気投票の開始報告を待ちながら、やんややんやと盛り上がっているであろうこの時に、俺一人がこのような辛気臭い記事を上げざるを得ないことを、色んな意味で痛ましく思う。しかし、このゲームが「善悪相殺」をテーマに据え、それをちょっと恐ろしいまでに一切ブレずに描き切って見せた以上、一人のプレイヤーとして、この概念に自分の解釈を加えて表すことは、既に義務であるとすら感じられたので、最早一種の脅迫観念に屈する形で書いた。言うまでも無く、俺はこの作品をこの上なく愛する故に、こんな下らない記事を長々と書くのである。これは作品に対する愛の実在の証明であると同時に、湊斗景明が見せた結末への失望を表した檄文でもあるつもりだ。ちなみに、本作のメインヒロインは足利茶々丸だったと断言する。同じくコンプリートを為したプレイヤーならば、きっと異論は無いはずだと信じたい所である。※以下、ネタバレ注意この作品は、自他共に認めるであろう「善悪相殺」の物語である。「善悪相殺」とは何か。まず「善悪相殺」の定義について考える。作中において「善悪相殺」という言葉は複数の意味を持つ。一つは、“正邪一体”。「一つの命は善と悪を共に宿す為、刃が生命を奪う時、必ず善と悪は諸共に断たれる」という観念。一つは、“因果応報”。「悪業を為した者は、いつか必ず報復を受ける」という観念。“正邪一体”は主に綾弥一条ルートで、“因果応報”は主に大鳥香奈枝ルートで、それぞれメインテーマとして描かれている。綾弥一条ルートでは、劇的な展開と深いテーマ性を以って。大鳥香奈枝ルートでは、話の纏まった美しさと結末の無常感を以って、それぞれの主題を見事に描き切っており、それだけでも賞賛に値する作品であると考えている。だが、今回話題にしたいのは“村正一族”が提唱する、“戦争根絶の為の理念”としての「善悪相殺」である。この場合の「善悪相殺」とは何か。「劒冑とは武の器。 戦のためのもの」「ゆえにまず、戦を鑑る。 戦とは如何なるものなのか――」「……」「善の働きに非ず! 正義の顕れに非ず!」「戦とは我の愛を求めて彼の愛を壊す行為。 武とはその暴力」「独善なり! これこそが悪!」「――――」「……では?」「我ら村正は戦を滅ぼす。 戦の悪を人々に知らしめ、戦を人の世から去らしめる!」「武にただ加担するのではなく、 武を制するために劒冑を打つ!」南北朝時代、戦火に荒れる世の中を憂いだ“村正一族”は、上記の心得を元に、平和への願いを込めて劒冑を打ち上げた。始祖村正と二世村正が打った劒冑には、二つの固有能力が付加された。一つ目。一つは“善悪相殺”の戒律である。対敵を一人殺したならば味方も一人。悪しき者を殺したのなら善き者も一人。憎む者を殺したのなら、愛する者も一人、殺さねばならない。そして二つ目。もう一つは、“精神同調”の能である。村正は『波』を放散し、周囲の人間の精神に仕手のそれを重ねることができるのだ。仕手の精神に浸透した善悪相殺の戒律も写される。これによって、戦場は“善悪相殺”の戒律に支配される。これが“戦争根絶の為の理念”としての「善悪相殺」である……が。作中で描かれている通り、この試みはズタボロの失敗に終わる。結果的に「善悪相殺」には、少なくとも三つの陥穽が存在することが明らかになった。1, 仕手の精神が尋常の状態に無く、理性による抑制が効かない場合(北朝軍主将の例)精神汚染の『波』は“善悪相殺”の戒律だけでなく、仕手の精神状況をも写し、焼き付ける。従って、狂った仕手が放つ『波』は、受けた者をも狂わせることになる。狂乱のままに殺戮を為す者に、説法をしても無駄である。この場合、“善悪相殺”の戒律は、被害者を二倍にするだけの無用の長物に成り下がる。2,仕手が無差別殺戮を望む場合(湊斗光の例)「味方」がいない仕手には、“善悪相殺”の戒律は無意味となる。仕手は、結果的に人類全てを殺すのだから、次に誰が死のうが頓着しないのは当然である。そして、その殺戮を止める術が、“村正”にはない。こういった手合いに対して、“戒律”を以って臨むのは無意味である。3,仕手の殺人行為が“善悪”或いは“愛憎”の価値基準に基づかない場合(湊斗光の例)極めて稀な例ではあると思われるが、“悪意”や“敵意”を完全に排除しつつ他者を殺害できる者が仕手になった場合。“善悪相殺”の戒律は働かない。ここまで失敗例を並べると、「善悪相殺」の試みが上手く働かなかった理由は明白になる。それは「人間があらゆる場合に“理性的判断”をする」と仮定して設計してしまった為である。例えば、敵に不意を打たれて恐慌した場合。例えば、不治の病に侵されて捨て鉢になった場合。正当防衛のために止む無く刃を揮う場合。復讐心や信仰心や理想など、強力な思想的後押しがある場合。考え得るだけでもこれだけの状況で、人は「善悪相殺」の戒律を無視して殺人を為し得る。戒律が発動しようと後の祭りで、徒に被害を増やすのみに終わるだろう。果たして、戒律による二倍の殺人を目にした人々は、争いを憎んで武を厭うだろうか?そうかもしれない。しかし、それ以上に多くの人間は、初期の景明と同様に、理不尽な戒律自体を憎むだろう。その上、この場合における殺人の理由は、理性でどうにもならない一種の「不可抗力」であり、武を厭おうが矛を下ろそうが関係無く、誰だって直面する可能性がある事態なのだ。さて、過去に世界を襲った二度の災厄は、平和の望み手が人々の“理性的判断”に期待し過ぎた結果であった。今、三度「善悪相殺」によって平和を求めんとする“武帝”には、どんな改善策があるのだろうか。「善悪相殺。 この武を世に布く」「誰もが、それこそ闘争の真実なのだと知り、認め……、 忌み嫌うようになるまで」「地上から戦いが絶えるまで」率直に言って「何も無い」。“武帝”は、過去に二度も失敗した試みを、そのまま繰り返そうとしている。愚直だと言う他無い。しかも“武帝”は傭兵集団であるから、尚更性質が悪いように思われる。“武帝”の思想的特色は、依頼者の敵を殺した数だけ、依頼者の味方をも殺すこと。つまり「“武帝”自身は善悪の判断を全く行わなずに、平等に双方を殺す」所にある。従って“武帝”には、上記の“理性的判断”を行わない依頼者、或いは“理性的判断”を行うことが出来ない状況下にある依頼者を排除することが出来ない。仮に、そういった「一般的な倫理判断から見て危険な依頼」を排除するなら、たちまち“武帝”の「独善」は姿を現すだろう。すなわち、“武帝”の試みが世界の戦争を撲滅することは決して有り得ない。過去と同じく、村正の“妖甲”としての雷名が強化されるだけで終わるだろう。以上が俺の、本作が描き出した「善悪相殺」という概念に対する結論である。「善悪相殺」は、過去においてのみならず、現在においても引き続き欠陥品である。これを行うくらいならば、戦場に立って反戦の歌でも歌っていた方がマシだった。これを行うくらいならば、我々の足元、地下100kmに存在する大空洞に、人の世に平和を齎してくれる神が封印されていると信じ、ひたすら穴でも掘っていた方がマシだった。痛恨に堪えない。俺の大好きな湊斗景明が悪鬼に堕した上に、何一つ成し遂げる事無く朽ち果てる未来が、まざまざと見えることが。とは言え、ここで述べたこと全ては、一ユーザーである俺の見解に過ぎない。実際に“武帝”の試みがどのように決着するかは、作中で描かれていない以上、謎のままだ。俺の予想通り、過去二例とは比べようもない程に無惨な結果に終わるかもしれない。もしかしたら、万が一の確率で、世界人類全員が平和の戒律に目覚め、一斉に矛を下ろすかもしれない。このままでは、結論は永遠に藪の中だ。そこでFD希望ですよ。これほど魅力的な物語、魅力的な登場人物を、このまま捨て置いて良い道理は無い。果たして“武帝”の試みはどう終わる?村正はどうなる?綾弥一条はどうする?大鳥香奈枝はどうする?ちゃっかり生き残っていた雷蝶閣下はどうなる?そしてそう、蕎麦屋の娘のエロ追加も忘れてはならない。旅路は長く果てしない。だが俺はFD発売が決定されるか、あるいは天へ召されるまで、歩みを止めないだろう。俺はエロゲーマーであり、エロゲーマー以外のものになろうとしたことは一度としてなく、これからもないのだ。