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カテゴリ:さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇
月 夜 田
これらのことを踏まえて調べているうちに、「月夜田」という地名を須賀川市の住宅地図の上に発見した。そこでその周辺をよく見てみると、(須賀川市下山田字)月夜田の近所に、(須賀川市塩田字)重石などの小字名が載っていた。それらは、通常の大きさの地図には記載されていない小字名であった。その上、須賀川市史の「宇津峯城と周辺城跡図」の中から、「小倉陣場」「宮田陣場」「陣場小屋」などという小字の前後に陣場を冠した一連の城館跡の名を見つけ出したのである。 ——そうか、「祭る明王」から「星ケ城」までは地名や固有名詞が並んでいるのか。これで一件落着だな。 と私は思った。これで唄の解釈が終わった、と考えたからである。 だから田村太平記が日通文学に掲載された時点では、単に地名や固有名詞が意味もなく羅列されているということで解釈ができたと思い込んで書いてしまっていた。とは言っても、この解釈に対しては、我ながらいささかのぎこちなさは残されたままになっていた。 それらもあって、一応出来上がっていた筈の田村太平記をもう少し読みやすく書き直そうと考えた。そのために、前回調査から漏れていた宇津峰山の南部に調査の足を伸ばしてみたのである。考えてみれば、宇津峰山は北の旧・田村郡と南の旧・石川郡の境界線上にあるのであるから、南北朝の戦争がこの田村郡内だけで戦われた筈がないという至極当たり前のことに気がついたからである。 先ず南北朝の古戦場跡の柄久原(かくのがはら・現在のJR水郡線、谷田川駅南部の田園地帯)を通り過ぎて大壇館跡を探した。その近くと思われる畑で農作業をしている人に聞いたが、 「えーっ。この辺に城なんかあったのがい?」と驚いた顔をされた。 「いや、城と言うより館ですね。昔の豪族が住んだ・・・」興味を持たせようとして誇張して言ったことなのに、相手に与えた影響の大きさに慌てながら修正した。 「うーん、そうかい。それは分がんねがったな」 彼は首を傾げるばかりで要領を得なかった。地図の上では、大壇館跡と思われる場所は東北電力の須賀川変電所に変っており、地形も大きく変化しているようであった。 ——こりゃ、駄目だ。 私はそう思った。 「ではこのことについて、誰か知っている人があったら教えていただけませんか?」 と言う私の依願に、その人は鍬を杖にしたまま首を横に振るだけであった。結局、大壇館跡はどこにあったか分からなかった。 次いで私は太政屋敷跡を目指した。ここも南北朝時代の激戦地の跡であり、その名の示す通り館跡である。しかしこれも、現在はゴルフ場に変わっている。 ただしここについては、ゴルフ好きな親戚の橋本正美氏が、一九九八年発行の「宇津峰カントリー・ゴルフ場のパンフレット」を貰って来てくれていた。彼は、私がこのことについて調べていることを知っていたのである。このパンフレットには、企業がPRのためとは言い、周辺の遺跡について簡潔ながらしっかりした説明がなされていた。この中から若干引用する。 ・・・「太政屋敷跡」伝説による国府跡とするには規模が小さく、南朝方の有力武将の屋敷であったと思われます。これと相対して西部土塁下に二間×八間の武者屋敷と考えられる構造が検出されています。興国元年(一三四〇)~正平八年(一三五三)の十四年間、東北地方の南朝方の有力な遺跡であろうと思われます。・・・ このことについてフロントで訊いてみたが、よく分からないようであった。 ——時代が古いんだから仕方ないか・・・。 私は半ば諦めながら車に乗り山道を下ってきたが、途中で目に入った一軒の農家に寄ってみた。当てはなかった。ただ太政屋敷に近い場所だから何かが分かるかも知れない、そう思っただけであった。そして当主の安藤昭一氏の、「まあ、上がれ」という言葉に誘われてのこのことコタツにもぐり込んだ。時期は晩秋であり、既に冬の季節となっていた。今までの経験で、こういう歓待がある時は不思議と収穫があるのである。この時にも本人からではなかったが、大収穫があったのである。 「館跡はクラブハウスになっちまってない。工事すっ時に調査したが大したものは出なかった」 私は聞き耳を立てていた。 「随分いじったから、地形が全く変わってしまった」 安藤氏は寂しそうな顔をした。私には彼の悲しみが共感できた。 丁度その時、この家に年輩の女性二人の来客があった。遠慮をして帰ろうとしたら、「まあいいから」と言われて腰を落ちつけた。 当主夫婦と女性客の雑談をしばらく聞いていたが、この南北朝時代の館に関するような堅苦しい話は出しにくかった。ましてこの女性の客たちに、興味がある話題とも思えなかった。やはり帰ろうかと思ったが駄目でもともと、タイミングを測ってあの唄のことを訊いてみた。 「この唄の中でどうも月夜田という文字が、気になりましてね。どなたかこの唄について何かご存知ありませんか?」 しかし思った通り、誰も知らなかった。ところが顔を見合わせていた女性客の一人が、こんなことを言い出した。 「おらは月夜田から嫁に来たんだげんちょ」 そう言って、月夜田にあった神様が守山に飛んで行った、という伝説のあることを教えてくれたのである。 「おらはよっく分がんねげんちょ、月夜田に住んでる遠藤豊一さんさ聞けばよく分がってる」とも付け加えてくれた。 この日はもともと、私は南北朝の戦争の館跡の確認に出かけた筈であった。しかしこの不思議な唄を探る旅が、この話をきっかけにはじまったのである。 私は以前から、地名としての「月夜田」や「重石」「塩田」という地名の存在は確認していた。しかしその「月夜田」という地名には、なにか漠然とした疑惑を感じていた。なんとも地名らしからぬ美しい語感であったし、あとに続く「重ね石」を考えるとやはり地名でもないようにも思えたからである。それであるから、月夜田に行けば何か分かるかも知れない、とは思っていた。しかしここで、誰に聞けば良いかまで分かるとは思ってはいなかった。あの田村太平記を書いた時のぎこちなさが、よみがえってきた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.12.11 08:21:43
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