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『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2007.12.19
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    田 村 麻 呂 仏

 私は考えていた。
 ——どうも守山の大元帥明王建立以前と思われる時期から、田村麻呂の話が出てくる。それに、田村大元神社にあるという厨子も気になる。すると人間であっ た田村麻呂は、いつから神になったか? いや、厨子は本来、仏像などを安置する仏具のはず。とすれば田村麻呂は最初は仏であったと考えても良いのではない か? それにしても、田村麻呂自体を祀った神社か仏閣がどこかにないのだろうか?
 それは意外に簡単に、三春町史の一ー二六〇頁、「清水寺縁起」として載っていた。
・・・・・五月廿七日庚申、戌ノ二刻、山城国宇治群の栗栖村に葬る、時に勅有り甲冑・兵杖・剣鉾・弓箭・糒塩を調え備えて合わせ葬らしめ、城東に向って穿 に立つ、即ち勅使監臨して事を行う、其の後、若し国家の非常、天下の災難あるべくむば、件の卿の塚墓の内、宛も波を打つが如く、或は雷電の如し、但、往古 来今坂上大宿禰氏より始め、他の氏族に至るまで、将軍の号を得て、坂東の奥地に向う者は、先ず密かに此の墓所に参って深く祈祷成せば、発向の輩、城を抜き 敵を下すこと、勝げて計うべからず・・・・・

 ここでは、[坂東の奥地に向う者は、先ず密かに此の墓所に参って深く祈祷成せば]と、墓での祈祷を勧めている。この時点で田村麻呂は、神であれ仏であれ、奥州鎮守を願う祈祷の対象として認められていたことになる。
 私は、何年か前に、大同年間に建立されたという山梨県東筑摩郡波田町上波田に見つけた田村堂のことを思い出した。


   大同年間                                 山梨県東筑摩郡波田町上波田・所在。                    重要文化財。                              田村堂。                                   昭和二十八年八月二十九日指定。                建築年代は明らかではないが、元来、厨子として作られたものと見られ、形式 手法から室町末期と推定される。 完成当初は総金箔塗であり、塗組・軒廻りの構造や扉両小脇・蹴込などの花挟間(はざま)・輪違紋(わちがいもん)の紋様 などから華麗な厨子であったと想像される。江戸時代末期に発刊された「若沢寺一山之略図」には境内の最奥部に坂上田村麻呂を祀る神祠として画かれており現 在も堂内には、田村将軍の座像が収められている。                                  波田町教育委員会

またもう一つ。明通寺の縁起が手元にある。

  福井県小浜市門前 延歴の頃、この山中に一大ゆずり木があった。その下に、世人と異なる不思議な老居士が住んでいた。たまたまある夜、坂上田村麻呂は霊夢 を感じてこの地に至り、老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため大同一(八〇六)年この所に堂塔を創建した。老居士はこのゆずり木を切って、薬師如 来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置したと伝えられる。

   国   宝: 建造物 本三重塔                     重要文化財: 本尊薬師如来像 降三世明王立像 深沙大将立像 不動明           立像

  これらの例に漏れず、福島県のこの地方に伝わる多くの田村麻呂関連の神社仏閣建立の伝説はほとんどが大同年間とされている。この時期を歴史に照らすと、田 村麻呂は延歴二十二(八〇三)年に志波城を築き、延歴二十四(八〇五)年に三度目の征夷大将軍に命ぜられるが中止となった。大同年間は次の年(八〇六~八 〇九)からになる。彼は弘仁二(八一一)年に五十四才で没しているから、いわゆる彼の晩年期にあたる。その晩年に合わせたかのように、田村麻呂を縁起とし た神社仏閣が全国的に、しかも集中的に建立されている。これはいったい何を表しているのであろうか? ただこの地方の場合考えられるのは、坂上家の子孫た ちが田村地方に武士化して土着したのがこの大同年間である、ということなのかも知れない。だがいずれ、田村麻呂の死と南北朝の時代まで、約五三〇年もの間 がある。五三〇年もあれば、波田町の田村堂の説明文のように、厨子に入ったまま神と変化してもおかしくないのかも知れない。

  また守山の大元帥明王社の勧請者を[田村郡誌]のいうように田村麻呂であるとすると、彼の晩年、つまり大同年間とせざるを得ないことは田村麻呂の死の時期 からも類推できる。とすれば、守山の大元帥明王社の大同年間の建立については、やはり大きな疑問詞をつけるべきかも知れない。つまり、康永二年・興国四年 の方が、より史実に近いと思われるからである。  ところで私が、田村麻呂にこだわったのは、[陣場]の解明と関係があると思ったからである。                                          月夜田、重石、大草と逃げてきた北畠・田村の連合軍が陣場に至った時、北畠顕 家が実在の人物の神格化は出来ぬと考えたのではないかということ、そして田村氏側は自分の先祖である田村麻呂を祀りたいと主張したのではないかと考えたか らである。理由として考えられることは、顕家の父・北畠親房は神皇正統記を書いているのである。いわば、ちゃきちゃきの天皇神話派である。その親房の息子 の顕家が、実在の人物でありながら仏となった田村麻呂を崇拝する田村氏と浦郷戸(陣場)で分裂をした、という考え方はどうであろうか。ただし分裂とはいっ ても軍事的な争いではない。彼らはその後も共に南朝方として、一緒に北朝方と戦っているからである。ともかくここでの分裂のため、顕家は塩田にある二ツの 村の菅舩神社に天照大神と天太玉命を残した。この二神を塩田に残すのには、もう一つの理由があったと思われる。それは田村大元帥明王(当時からそう呼ばれ ていたかどうかは疑問であるが)には、すでに天照大神と天太玉命が、天之御中主命とともに合祀されていたのである。同じところに同じ神を祀る訳にはいかな かったのではなかろうか。 そこでここで分裂した田村氏は、自分の本拠地である守山の山中(地名)に田村大元帥明王を建立して坂上田村麻呂を遷した。そう 考えてくれば、田村大元神社の宮司の遠藤氏が「どこからか来たか分からない」と言われた坂上神社の厨子の意味も、分かるような気がする。 ——すると、星 ケ城はどうなるのか? 田村氏が自己の版図の中に、しかもそう遠くない距離の所に同じ名の城を二つ持つということは、やはり不自然である。単に[星ケ城] と言っただけでは、当時の関係者でも間違う可能性があるのではないか。ましてや南北朝の戦いの、将に現場であったのである。戦いとあれば、命令やその他で [星ケ城]違いは絶対に許されない。






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最終更新日  2007.12.31 13:46:01
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