1616949 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

桐屋号

桐屋号

カテゴリ

著書一覧

(1)

ショート、ショート

(236)

街 こおりやま

(91)

阿武隈川~蝦夷と大和の境界線

(15)

埋蔵金の伝説

(7)

三春藩と東日流外三郡誌

(12)

安積親王と葛城王

(18)

安積山のうた〜思いつくまま

(8)

和歌と紀行文に見る郡山

(42)

田村麻呂~その伝説と実像

(19)

雪女~郡山市湖南町の伝説

(9)

郡山最初の領主・伊東祐長

(21)

田村太平記~南北朝の戦い

(32)

源頼朝に郡山を貰った男

(24)

愛姫桜~ひそやかな恋の物語り

(12)

北からの蒙古襲来

(12)

さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇

(15)

三春挽歌~伊達政宗と田村氏

(19)

寂滅~隠れ切支丹大名

(10)

江戸屋敷物語

(9)

大義の名分~三春は赤穂とどう関わったか

(12)

三春化け猫騒動~お家騒動伝説

(14)

三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本

(0)

戒石銘

(10)

会津藩、ロシアに対峙す~苦難の唐太出兵

(42)

郡山の種痘事はじめ

(25)

いわれなき三春狐

(10)

三春戊辰戦争始末記

(45)

遠い海鳴り~幕末三春藩の経済破綻

(15)

小ぬかの雨~明治4年、三春藩最後の敵討ち

(16)

馬車鉄道〜インダス川より郡山・三春へ

(31)

三春馬車鉄道(抄) 2006/3 歴史読本

(1)

マウナケアの雪~第一章 銅鑼の音

(27)

マウナケアの雪~第二章 心の旅路

(24)

マウナケアの雪~第三章 混迷するハワイ

(29)

マウナケアの雪~第四章 束の間の平和

(26)

我ら同胞のために~日系二世アメリカ兵

(50)

二つの祖国の狭間で

(21)

九月十一日~ニューヨーク同時多発テロ

(13)

石油輸送救援列車・東へ

(13)

講演その他

(2)

新聞雑誌記事

(27)

いろいろのこと

(1)

海外の福島県人会

(34)

鉄道のものがたり

(10)

コメント新着

桐屋号@ Re:郡山の製糸(01/04) ビジターさん 1* 私はPCについてよく知…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
ビジター@ Re:郡山の製糸(01/04) ご労作読ませていただきました。 1.青色…
桐屋号@ Re:10 新たな資料(02/26) 詳細をありがとうございました。 つい先日…
桐屋号@ Re[1]:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) 通りすがりさんへ ありがとうございます…
湊耕一郎@ Re:10 新たな資料(02/26) 御無沙汰しております。お変わりありませ…
通りすがり@ Re:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) 今泉正顕著「安積采女とその時代」(教育書…
aki@ Re:六、『安積山のうた』と『仮名序』(01/20) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
GX革命@ Re:大同2年(04/26) ルパン三世のマモーの正体。それはプロテ…

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2007.12.20
XML
     さ ま よ え る 神 々

 話を戻そう。宇津峰山や雀宮に天皇たちを祀ったのは、南北朝の戦乱後であると考えられる。この戦乱後であるとすれば、二つの星ケ城が並立しても一向に構わない、という時期であったということではないだろうか。つまりこの唄にある[星ケ城]は、どちらかの一つではなく、二つの星ケ城を唄っているということではあるまいか?
 日本語には、名詞の複数形がない。ということから、唄にある星ケ城は一つではなく、 2 Hoshigajos を表しているということにならないだろうか?
 そう考えてくると菅舩神社も不思議に感じられる。なぜ唄の中に菅舩神社の名を出さないで、「二ツ村」で二ツの菅舩神社を示唆したのであろうか。考えられることは、御旗神社の神々、つまり北畠系の神々を、二ツの菅舩神社に残したことを北朝方に知られたくなかったということかも知れない。そうすれば宇津峰山に村上天皇、亀山天皇と南北朝とは無関係な天皇を祀り、あえてここ二ツの菅舩神社に関与させたと考えられる。すなわち[二ツ村]の二ツは、菅舩神社Sと星ケ城Sの双方にかかると・・・。
 そういう目で見ると、宇津峰山頂には小さな祠程度で立派な社殿が建てられた形跡が見られない。それから推測するに、御代田の雀之宮神社を隠す意図で、南北朝の戦後になってから御代田城も星ケ城と言ったとも考えられるのではないか。
 そうなるとやはり、唄にある星ケ城とは二ツの御代田城をも指していることになる。するとどちらかの星ケ城が北朝方に対しての目眩まし、つまりダミーであったとも考えられる。それにダミーと考えられる理由として、
 第一に「皇子」がある。というのは、後村上天皇、後亀山天皇と親子を祀るのであれば、何故、祖父の後醍醐天皇を祀らないで後亀山天皇の従兄弟である宇津峰宮を祀ったのか?
 第二に、後村上天皇と後亀山天皇の間の九十八代・長慶天皇が外されている。
 つまり現実に九十七代・後村上天皇、九十九代・後亀山天皇、宇津峰宮を祀ってあるのだが、これはむしろ、南朝の始祖である後醍醐天皇の子の後村上天皇、そして孫の後亀山天皇を祀った方が自然ではないのか? それなのに後亀山天皇の従兄弟の宇津峰宮を祀ったことに、明らかな恣意が感じられる。
 それでは、月夜田にある八坂神社はどう関係するのであろうか。
 八坂神社は、古くは播磨から牛頭天王を祇園(京都市東山区)の地に勧請して祇園社と呼ばれていた。のちに素戔鳴命と習合されて牛頭天王・八坂神社となり、足利将軍一門の厚い崇敬を受けていた。
 このようなことから月夜田にあったこの二つの神社は、北畠氏と足利氏の対立を象徴しているとも考えられる。つまり焼けた神社(南朝・敗者・北畠氏・無くなった神社)と南北朝の戦争後勧請されたであろう八坂神社(北朝・勝者・足利氏・今も残されている神社)が、そのことを具象的に表しているのではあるまいかということである。とすればこれは、北畠対足利を意味しているのではないのだろうか? 
 ——ところでそう言えば、あの神護山高安寺はどうなのだろうか? 高安は文字こそ違うが、同音で年号の弘安(一二七八~一二八八)がある。弘安では古すぎるが、南北朝の頃にコーアンという音の年号がないだろうか? そしてその頃あの高安寺が創建されたとすれば、これは面白い。
 私は急いで年表を繰ってみた。
 ——あった!
 後醍醐天皇が崩御し、南朝・後村上天皇の時代に北朝方の年号として康安(一三六一~一三六二)があった。もしこの年代での創建が証明されれば、高安寺は雀之宮神社を護りながら、北朝方から雀之宮神社を隠すという目的で高安(康安)寺と命名したとも考えられる。もしそうであったとすれば、雀之宮神社を隠すという意図がより明確になるのではないだろうか。
 ——しかしこれでは、あまりにも話がうますぎる。とにかく訊いてみなければ。
 私は疑問を抱えて高安寺に三ツ本光照氏を尋ねた。
 お寺で一番古い過去帳を見せて頂いた。ただし、明治三十二年に復元されたものであった。お寺が火災で焼けた後に復元したものであるという。
 寺の創建は、弘安元(一二七八)年であるという。ところが葬られている人の最も古い年号は応永二(一三九四)年であった。なお没年不明の和尚の戒名が四つ、その前に記載されている。私の仮定は残念ながら狂ったらしい。弘安元年、そして応永二年。この明確な年代とその差一一六年の間に康安元(一三六一)年はあるが、お寺の創建説を康安とするにはちょっと証拠が弱いことになる。ちなみに北朝の康安元年は、南朝の正平十六年にあたる。三ツ本氏は亡くなられた父の和尚の話として、「『本堂再建の折、天井に古い建築年代を書いた板を上げておいた』と言われたが、自分では確認していない」
と言われた。
「それに一一六年の間に四人の和尚というのは少なすぎるが、その間には無住寺の時もあったかも知れないし書き漏らしたかも知れない。もっともこうなると、仮定の話になってしまうが・・・」
 ——そうか、残念。こちらも仮説だったが。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007.12.20 09:46:28
コメント(0) | コメントを書く
[さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.