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『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2007.12.21
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 二月、小雪の舞うある日の午後、私は三春の田村大元神社に出かけた。ここの宮司の田母野公彦氏は、私とは小学校以来の同級生である。そのためもあって気安く付き合わせて頂いていた。彼は高校の教師を長く勤め、現職時代に、大著・三春町史の編纂にも関わった人物である。また今まで調べてきた経過から、三春の田村大元神社は終着点のようにも思われた。それなら当然、あの唄の原本が保存されているのではないかと考えていた。ところが彼は、あの唄を大日本地名辞典で見ただけだと言う。教えてくれた大日本地名辞典を見てみると、あの田村郡誌復刻版と内容が全く同じであった。これは、どちらが先であったかは分からないが、何らかの原本があったことは想像に難くない。
 ところで彼は、「大元帥と大元明王は同一であり、外敵と戦う場合の祈願の対象である」と言い出した。
 私は驚いて訊いた。
「ちょっと待って。ということは、ここの田村大元神社には田村麻呂が祀られていないということ? するとそれは、守山や三春の他にも大元神社があるということ?」
「ある。例えば岐阜県にもあるし、京都の吉田神社(京都市左京区吉田神楽町三〇)と同じ場所に、大元宮という名で大元神社の本宮がある」
と言うのである。
 そこで分かったことは、私が、「田村大元帥明王には、坂上田村麻呂が祀られている」と勘違いしていたことであった。これは重大な勘違いであった、
 この私の勘違いの理由は、その昔、
 1 坂上田村麻呂の末裔を称する田村氏が、守山から三春に移る際に田村大元   神社を三春に遷宮したこと。                     2 遷宮した三春の土地の名を、守山と同じ山中とし、田村氏の氏神としたこ   と。                                3 田村大元神社は田村大元帥明王と呼ばれていたこと。          4 田村大元帥明王は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を想起させていたこと。  などから、私は大元帥は田村麻呂の別名であると思い込んでいたことにあった。 彼は、話しを続けていた。                     「ここの御祭神は国常立命であり、大元宮の御祭神と同じで田村麻呂とは関係ない。今でも、三春町民にさえそう誤解されている。ただしこの神は、明治の神仏分離の際に勧請されたもので、以前の御祭神はどなたであったか分からない」 (注)何年か後にこの話になったとき彼から、「以前に言ったことは間違いで、   田村麻呂も祀られている」という訂正があった。            彼はそう言いながら、田母野家の墓碑の写しの一つ[故祠掌田母野坂上衛之墓]と、石に彫るための準備であったと思われる墨書[田母野坂上家之奥津城]を奥から持ってきてくれた。                       「ウチは田村郡田母神村(現・郡山市田村町田母神)出身で、元の姓は田母野ではなく田母神だった。田母神は田村麻呂と関係があると言われている。坂上はその関係から使われていると思っている」                  「うーん。とすれば、田母野家と田村麻呂との関係は、田村大元神社とではなく、田母神の地と関係があると?」                    「うん。それから三春の田村大元神社は守山から分霊されたと言われているが、そうではない。遷宮したものと言われている」                彼はそう言った。 私は大いにまごついていた。              守山の田村大元神社の御祭神は、天照大神・日本武尊・天之御中主神・および国常立命である。そして三春の田村大元神社の御祭神は、国常立命のみである。そこで私は田母野氏の話から推定してみた。

 もともと守山の田村大元神社には、国常立命と坂上神社が祀られていた。国常立命が三春の田村大元神社に遷宮された後、守山の空になった神社の跡に再度国常立命が勧請され、さらに天照大神・日本武尊・天之御中主神の諸神を祀ったと考えるのはどうであろうか。ただここで注意しなければならないのは、伝説上、日本武尊と田村麻呂の一体化があったということである。これは日本武尊を田村麻呂と読み変えたり、その逆をする必要もあるということを示唆しているのかも知れない。

「ところで先ほどの話から、明治の神仏分離の際国常立命が勧請されたというが、それ以前の田村大元神社の御祭神は田村麻呂であったという考え方はどうだろうか。そうすれば、[田母野坂上家]などの文字とも接点が感じられるのだが?」                                 「うん、確かにそれは何らかの関係はあったと思われる。例えば」と言って彼は、田村大元神社が宗教法人に登記の申請の際に書かれたという[神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。その神社明細書は、その辺にあったものが自然にスルッと出てきた感じであった。余りにも猪突に私の目の前に表れた。思わず息を呑んだ。物的証拠がはじめて出てきたのである。                 ——これは・・・、今までの推理とは違う。本物だ。            私はその書面を見ながら凍りついたようになっていた。            ——本当にこんなことがあるんだ。仙道田村荘史の記述とも、一致する。まるで奇跡だ!                               しばらくは声も出なかった。

 ところで石川郡小山田村と言われた当時、この小山田村は月夜田の部落を包含していた。とはいっても、現在、地名として明王壇は使われていない。しかしこの神社明細書と月夜田の伝説から、焼けた神社が明王壇にあったことは充分に確定の根拠となり得よう。なおかつ明王壇は、これまでの一連の調査から、月夜田のあの焼けた神社跡の丘である可能性が非常に高い。とすれば、先ず北畠氏か田村氏かが、大元帥明王を京都の大元宮から明王壇(月夜田)に勧請したと考えてはどうか。                                この田母野説(明王壇→守山三春}であれ、または別説(明王壇重石大草陣場守山三春)であれ、この大元帥明王はいずれ守山を経て三春に到着する。こうなれば、あとは[月夜田]と[明王壇]が同じ場所かどうかの確認をするだけである。それが確認出来れば、以前に思ったように、[祭る明王]は月夜田以降の地名にかかると考えてもよいのではあるまいか? ということは、最初に明王壇に祀られた大元帥明王は、別説のように祀られながら運ばれてきたという意味になる。するとそれは、田母野説を否定することではなく、田母野説は月夜田と守山の間を省略しただけである、ということになろう。
 ——これは、一つの決着点にならないだろうか。
 そう考えながら私は言った。
「明王壇という地名の確認が必要だが、これで少なくとも大元帥明王を送り出した小山田村月夜田の伝説と中間の大草、そして受け取った側の三春田村大元神社にある文書とで、一応繋がったと見ていいね? 月夜田も明王壇も小山田村というところが合致する」
 彼は笑いながら答えた。
「うん、そうかもね・・・」
「それにしても、想像だけで明王壇などという地名を書ける筈がない。何か原本があったのではないだろうか」

 私は明王壇の確認のため、月夜田の遠藤豊一氏に電話をした。彼は言った。
「地名としては残っていないが、月夜田の燃えた神社の跡地の丘がそう呼ばれていた」
 ——やはりそうか。
 この明王壇という今は使われていない地名が、送り出した方の伝説と受け取った側の文書とで将に合致したことになる。私は一人、快哉を叫んでいた。今までの調べから、「明王壇は、燃えた神社の跡だ」という自信はあった。だからその地名を確認した時、当然、という気持もあったが、やはりそれは嬉しかった。私はこの結果の報告がてら、田母野氏に電話をした。南北朝時代の神仏習合について知りたかったこともあった。彼は、
「おそらく明王壇では、小屋程度の小さな建物で神仏を合わせて祈っていたのだろう」
と言う。
「ところでタモちゃん(彼のニックネーム)、その小屋のそばにあった大きな三つの岩が、御神体となる可能性はあるだろうか?」
「その岩がそうだとは言えないがその可能性はゼロではない。その場合、御神体となる岩は磐境と呼ばれる」







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最終更新日  2007.12.21 12:05:11
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