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カテゴリ:さまよえる神々~宇津峰山に祀られた天皇
二月、小雪の舞うある日の午後、私は三春の田村大元神社に出かけた。ここの宮司の田母野公彦氏は、私とは小学校以来の同級生である。そのためもあって気安く付き合わせて頂いていた。彼は高校の教師を長く勤め、現職時代に、大著・三春町史の編纂にも関わった人物である。また今まで調べてきた経過から、三春の田村大元神社は終着点のようにも思われた。それなら当然、あの唄の原本が保存されているのではないかと考えていた。ところが彼は、あの唄を大日本地名辞典で見ただけだと言う。教えてくれた大日本地名辞典を見てみると、あの田村郡誌復刻版と内容が全く同じであった。これは、どちらが先であったかは分からないが、何らかの原本があったことは想像に難くない。 もともと守山の田村大元神社には、国常立命と坂上神社が祀られていた。国常立命が三春の田村大元神社に遷宮された後、守山の空になった神社の跡に再度国常立命が勧請され、さらに天照大神・日本武尊・天之御中主神の諸神を祀ったと考えるのはどうであろうか。ただここで注意しなければならないのは、伝説上、日本武尊と田村麻呂の一体化があったということである。これは日本武尊を田村麻呂と読み変えたり、その逆をする必要もあるということを示唆しているのかも知れない。 「ところで先ほどの話から、明治の神仏分離の際国常立命が勧請されたというが、それ以前の田村大元神社の御祭神は田村麻呂であったという考え方はどうだろうか。そうすれば、[田母野坂上家]などの文字とも接点が感じられるのだが?」 「うん、確かにそれは何らかの関係はあったと思われる。例えば」と言って彼は、田村大元神社が宗教法人に登記の申請の際に書かれたという[神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。その神社明細書は、その辺にあったものが自然にスルッと出てきた感じであった。余りにも猪突に私の目の前に表れた。思わず息を呑んだ。物的証拠がはじめて出てきたのである。 ——これは・・・、今までの推理とは違う。本物だ。 私はその書面を見ながら凍りついたようになっていた。 ——本当にこんなことがあるんだ。仙道田村荘史の記述とも、一致する。まるで奇跡だ! しばらくは声も出なかった。 ところで石川郡小山田村と言われた当時、この小山田村は月夜田の部落を包含していた。とはいっても、現在、地名として明王壇は使われていない。しかしこの神社明細書と月夜田の伝説から、焼けた神社が明王壇にあったことは充分に確定の根拠となり得よう。なおかつ明王壇は、これまでの一連の調査から、月夜田のあの焼けた神社跡の丘である可能性が非常に高い。とすれば、先ず北畠氏か田村氏かが、大元帥明王を京都の大元宮から明王壇(月夜田)に勧請したと考えてはどうか。 この田母野説(明王壇→守山→三春}であれ、または別説(明王壇→重石→大草→陣場→守山→三春)であれ、この大元帥明王はいずれ守山を経て三春に到着する。こうなれば、あとは[月夜田]と[明王壇]が同じ場所かどうかの確認をするだけである。それが確認出来れば、以前に思ったように、[祭る明王]は月夜田以降の地名にかかると考えてもよいのではあるまいか? ということは、最初に明王壇に祀られた大元帥明王は、別説のように祀られながら運ばれてきたという意味になる。するとそれは、田母野説を否定することではなく、田母野説は月夜田と守山の間を省略しただけである、ということになろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.12.21 12:05:11
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