いつ出るか分からない出発命令を待ちながらも、いよいよ本土から離れるのが近いという感覚が故郷への思いを募らせていた。
「会津を出発してから一ヶ月にもなる。遙かに来たものだ」
「はい、ここには雪はありますが、会津は春が近いでしょうね」
友吉のこの言葉が、二人に話の接ぎ穂を失わせていた。
「ところで先輩。仙台藩が北方警備に出るのは奥羽最大の藩であるから当然とも思えるのですが、何故わが会津藩も出なければならなかったのですか? 仙台藩だけでは足りなかったのでしょうか? そこのところがよく分かりません」
「うーん、その理由になるかどうかは分からぬが、いま北方警備に出ている藩は南部、津軽、秋田、庄内、仙台、それにわが会津藩だ。そのわが藩は仙台に次いで奥羽第二の大藩、それが理由の一つではないか?」
しかし友吉は、驚くようなことを口にした。
「それにしても先輩。筆頭家老は、こちらから幕府に派兵を申し入れたと聞いたのですが、本当でしょうか?」
「うっ、お主もそれを聞いておったか?」
「はい。しかし筆頭家老は、なぜこのような貧乏籤(くじ)を自分から引かれたのでしょうか? 会津藩としても決して楽な財政状況ではなかった筈」
「確かに。あの苦しい財政をどうにか立て直してきたのが筆頭家老であったのであるから、北方警備が藩にとっての負になることは十分にご存知であった筈」
しばらくして平蔵が言った。
「よくは知らんが、もしかして会津が鬼門であったからではないか?」
「えっ、キモン?」
「うむ、わが藩は蒲生氏郷公以来、都を安寧ならしめるべく、この鬼門の地に置かれてきたという。田中様は『わが藩がロシアの暴虐から日本を守る、つまり江戸を守るべき時が来た』と考えられたのではあるまいか」
「そうか、その鬼門か」
友吉は口を一文字に結ぶと納得したのか、小刻みに頷いていた。
海の天候は荒れていた。このため会津隊は、ここでほぼ一ヶ月の帆待ちを余儀なくされることとなった。
「こう足止めが長いと、気が揉めるな」
「左様で、何か先輩、こう自分の足腰が萎えてくるような気がします」
「それは困る。むしろこれからが大変だ。せっかくわれわれが藩の重役方に強硬な申し入れをして先鋒隊を承ったのに、戦う前にそれでは困るぞ」
「いや、大丈夫ですよ。いざとなったら、奴らに目にもの見せてくれます」
ここ北部の二藩は、他の藩とは比較にならぬほど緊張していた。それは六年前の寛政五(一七九三)年、津軽藩は盛岡、八戸藩とともに北方警備に派兵していたからであった。
また三年ほど前に起きた択捉島事件で痛い目にあった南部藩では、古くからの海防施設の拡充に力を入れていた。海に面している南部藩は、ロシアの直接の攻撃を恐れていたのである。田名部代官所(青森県むつ市)管内の尻屋岡上(下北郡東通村尻屋)、あおべさき(東通村尻労)、大間崎(下北郡大間町大間崎)、おきな(むつ市脇野沢町)の四ヶ所や大畑村(むつ市大畑)の焼山崎、宿野辺村(むつ市宿野辺)の品の木崎の番所などがそれである。
平蔵はこの状況を見て、直属の上司である日向三郎右衛門に急いで会津へ報告する許可をとった。「これを単に杞憂と笑ってはいられない。海から離れていても、会津がロシアからの報復攻撃を受けないという保証はない」と心配したからである。
会津藩では、通常、先鋒、左右翼、殿(しんがり)を一年交代で順番に役目を果たす『四陣の制』を用いていた。ところがここにきて、先鋒を希望する隊の要請が強く、やむを得ず配置先をクジで決定したのである。三番手で松前駐在となる筈の三宅孫兵衛隊が最前線の北蝦夷地行きを当ててしまったため、会津を出るとき決められていた梶原・日向隊の両隊から不満の声が上がった。『四陣の制』は、もともと次のように構成されており、一年目に先鋒についた軍は二年目には殿、三年目は左右翼、四年目で一巡することとなっていた。また陣将は千石以上の家老で、番頭隊の番頭は八百石級、新番頭隊の新番頭は五百石級の者が充てられていた。
先 鋒 陣将隊 一 隊 約 四〇〇名
番頭隊 一~三番隊 各約 四〇〇名
左右翼 陣将隊 一 隊 約 四〇〇名
番頭隊 一~三番隊 各約 四〇〇名
中 軍 藩主本陣 約一〇〇〇名
輜重隊 約 四〇〇名
殿 陣将隊 一 隊 約 四〇〇名
番頭隊 一~二番隊 各約 四〇〇名
新番頭隊 一 隊 約 四〇〇名
御留守備 約 五〇〇名
猪苗代御留守 約 一五〇名
梶原隊と日向隊からの猛烈な抗議行動に、総大将の内藤信周がこれを白紙にし、改めて『四陣の制』に戻すことになった。
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