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『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2009.01.24
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 蝦夷への海は荒れていた。否応なく青森で帆待ちをせざるを得なかった。そのためようやく青森を出発したのは、三月も十六日であった。すでに一ヶ月という期間を浪費していた。松前街道を通り、油川宿(青森市)、蓬田宿(蓬田村)を過ぎて蟹田宿(外ヶ浜町)に泊まった。松前街道は青森から竜飛崎に至る街道で、蝦夷地の松前藩が参勤交代に利用したことからこの名がついたという。
「もう三月も半ばなのに、この寒さは耐え難いな」
 平蔵は、黙々と一緒に大筒の橇を押している友吉に、独り言のように話しかけた。
 三月十八日、狗穴巖(いぬあないわ)をくぐり峻険な道を過ぎる。鉛色の空と海が合わさったような狭いこの道に、狗の名を付けたのであろう。ここでもまた美しい石が産出した。今別に宿る。
 三月二十四日、松前奉行の川尻肥後守春之様が、蝦夷地警備に赴く藩士を迎えに来た。陣将が部下を率い、お迎えをした。
 三月二十九日、全隊がついに三厩宿(外ヶ浜町)に到着した。ここの海辺には奇岩が峙(そばだ)ち、奥の方の巌にそれぞれ数人が入れるほどの三つの洞窟があった。俗に源義経が馬を繋いだ所と伝えられる。三個の厩、つまり三厩の港の名はここからきたものであるという。
 源頼朝公に追われた義経公はここより蝦夷に渡ろうとして津軽海峡の荒波に阻まれた。しかし義経公が岩に座り、守り神の小さな観音様を祀って三日三晩祈ったところ、夢枕に白髪の翁が現れて「三頭の龍馬を与える」と告げた。目覚めると岩屋に三頭の馬が繋がれており、海は凪(な)いで無事蝦夷に逃れたという。近くの義経公が座ったという浜の高台には、円空が義経公の観音仏を見つけ、それに自らが彫った仏像を一緒に納めたという義経寺が立つ。それ以来土地の人々は、この岩を厩石、この地を三厩と呼ぶようになったという。
「そもそも、義経公の蝦夷渡海説は、林羅山・鵞峯父子が幕府の命令で編纂した『本朝通鑑』(一六七〇年)の義経の条に、『衣河ノ役、義経死セズ、逃レテ蝦夷ケ島ニ至ル、其ノ遺種今ニ存ス』云々と記した辺りに端を発しているらしい」
「林羅山がですか?」
「うん。その後も徳川光圀公が、『大日本史』に異説として義経渡海説を載せている」
「はあ」
「これについては金史の別本でも伝えられていると言われたが、新井白石は、これは単なる判官贔屓(はんがんびいき)の無知蒙昧(むちもうまい)な話に過ぎないと言っている」
「金史の別本?」
「うむ。金史とは中国の金代の歴史書であるがこれには本来『別本』などなかった。ところが偽系図作りの名人、沢田源内なる者が承応二(一六五三)年に江戸へ向かい、『金史』の『別本・列将伝』という中国の書物に義経の息子で義鎮という者が大陸に渡って、金の将軍になったという記述があると言って水戸頼房卿に売りこんだ。もっとも、偽系図作りで名をはせた正体が露見しそうになり、退去し、仕官はかなわなかった。けれど、『金史別伝』は疑わしきものとしてではあっても、『大日本史』に、載るところとなってしまった」
「はあ。左様で」
「しかし今では、それが沢田源内の作ったいい加減な話とされている。しかもこの男、科学者の平賀源内先生の名を騙っているようで、なおさら胡散臭い。俺も、もし義経公が生きて捲土重来を期すとしたら、もともと和人の少ない蝦夷で、戦いのための日本人を徴募できると考えたであろうかと思う。まさかアイヌ人を部下にして鎌倉に攻め上るなどと考慮の外だ。そのために義経公がここより蝦夷へ渡海したということについては、大いなる疑問を感ずる。これはもしかして、義経公自身がではなく、残された家来たちが逃げ渡ったということではあるまいか?」
「なるほど」
 三厩では、米が一升、八十六文もしていた。
「それは高値だ!」

 竜飛崎(ママ)は津軽半島最北端の地である。眼下は断崖絶壁で巾十間(十九・五メートル)と狭いがかえってそのために激しい潮流と風の吹く難所となっていた。そして前方には、蝦夷地の箱館山やその向こうに連なる山々を一望することができた。
 ここより松前までの海中に、竜飛、中潮、白神と三ヶ所の難所がある。ここでの海流は西北より流れているが、この難所は数十里にわたって隠れている。この三ヶ所の危険なことは阿波の鳴門以上であるといわれる。昔からここで遭難する客舟は少なくない。天が栄える日本と蝦夷との境界としたかのように思える。
「いよいよ海を渡る。覚悟せねばなりませぬな」
 友吉が神妙な顔をして言った。
 ──友吉は荒れた海を心配しているのか、それとも戦うことを覚悟しているのか。
 平蔵も神妙な顔をして考えていた。
「さすがに荒れた海は、猪苗代湖の比ではないな」
「はい。海とは猪苗代湖よりちょっと大きいだけと思い込んでおりましたが、とんでもなく恐ろしい所でございます」
「うむ、これでは藤つるなど編んでも、波で流されてしまうわな」
 二人は、海鳴りの響くその先に目を投じていた。そして目の前の海は、降る雪に煙って見えていた。
 その夜は波浪の音に揺れるかのような最後の宿泊地、解発に泊まった。





 

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最終更新日  2010.01.16 20:24:40
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