翌日の朝早く、われわれはアイヌ人との打ち合わせの通り船の上に多くの旗を立てて飾り、敵意のないことと接岸の意志を表した。幕府の命を受けて会津藩雇いの最上徳内常矩が先に着いており、打ち合わせに加わっていた。これから船が入ろうとしている久志由牟古多牟(クシュンコタン)は、北蝦夷地の南の玄関口に当たる天然の湊であった。
翌四月十九日辰刻(午前八時)、最上徳内の指図を受けたアイヌ人が数百人、荷上げその他御用向きを務めた。去年五月十六日、ロシア兵が来襲してここを焼き払っていたため、彼らは会津藩の船を見て山へ逃げ出したそうである。
「徳内殿がなだめておいてくれたそうだ」
そう聞かされて、皆が感謝していた。
陣将は軍師とともに自ら山谷を監察した。森が海岸にまで迫り小さな沼が点在する。『湿原の神』と称される丹頂鶴がよく見られた。そして藩士と全ての武具や食料を降ろすと、乗せてきた八船全部が引き上げていった。それを見た平蔵には、この辺地に取り残されたような寂寞感が急に身に迫ってきた。遠方から見て、農家と良く耕された土地のある農場だと思っていたものが、実際には雑草とシダの繁った不毛の荒れ地であることに気がついた。家は平屋建てで、しかも小屋がけのように簡単なものであった。
軍の上陸を聞きつけたアイヌ人が、女までが黒い蟻のように浜辺へ群がってきた。平蔵らを珍しがったこれらの穏和な人たちをロシア船が襲い、脅し、火をかけて焼き払い、集会所や倉庫をすっかりなくなってしまった。それでもアイヌの民家の十数戸が被害から逃れたという。その異様な光景は、まるで羅刹鬼国(らせつきこく)観音経に出てくる喰人鬼の住む国)に来たようであった。やむを得ずわれわれは風雨を避けるために油単を間に合わせの屋根にして、海岸で露営をした。曇った日が続いた上、砂を巻き上げるほど風が強く、この砂が弱々しい間に合わせの家に入り込んで、終日苦しめた。それに常に濃い霧が一面に広がっていて油単(ゆたん・家具を屋外移動する時に覆った防雨用のシート)の屋根からは水分が滴り落ち、また地面からは湿気が這い上がって艱難を極めた。
夜になると気温が一気に下がった。
「舟に乗って楽をして来たからではあるが、四月も末なのにこの有様では、真冬の寒さは尋常なものではないな」
「そうですね。若松も冬は寒いですが、ここの寒さから比べれば、暮らしやすいです」
「うん。箱館にいたときに土地の者に聞いたが、寒中には『寒い』とは言わずに『縛れる』と言うそうだ。寒すぎて身体が縮こまり、縛られたように動きが鈍くなるからだそうだ}
「しかしこのような所でロシアと戦いながら、何年もいるようになるのでしょうか?」
「何だ! もう弱音か?」
陣将は訓示した。
「幕府はいまから二十二年前の天明六(一七八六)年、この地に青島俊造や最上徳内常矩の幕府調査隊を派遣して調査を行い、十八年前の寛政二(一七九〇)年には、松前に役人を置いて管理している。これらのことを考えれば、この地はもともとわが国の領土である。今更ロシアに引き渡す理由は何もない」
この地がアイヌ語交じりのカラフトから北蝦夷國と正式に改められたのは、今年に入ってからである。この地を高麗地であると言う者がいるが、それは間違いである。この地に来襲するであろうロシア船に備え、クシュンコタンに本営を造ることとなった。
この北蝦夷地には、おおよそ二十一の集落があるという。産物としては青玉、羽、蟒緞、雑絵、綏帛などがあるとされるが、これらは漢の物であって、韃靼地方から来るものである。幸いにも和人の役人もここまでは手が伸びぬと見えて、現地のアイヌ人は藩士に対しても友好的な態度である。聞けば北蝦夷地の人口は増えているとのことなので、ホッとするものがあった、
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