臨 戦 態 勢
基地設営のためアイヌ人を雇おうとしたが、夏の三ヶ月の間は鮭の大群が押し寄せ、産卵に遡上してくるのを獲るため思うように人が集まらず、最上徳内の「ロシア船からアイヌ人を守る」という説得でようやくその協力を得ることができた。彼らに煙草を与えると大いに喜び木で拵(こしら)えた煙管で吸い回した。また握り飯を与えれば家に持ち帰って子どもに与えているようであった。
われわれはそれらアイヌ人ともに木を伐採し、山を切り開いて兵舎を造ろうとしたのであるが、土地の草刈りをしてみると、予想外に凹凸で平坦にするには手間が掛かったりした。兵舎の建設と平行して、砲台を作りはじめた。その間に陣将は軍監とともに自ら山野に分け入り、泥水をすすって土地の状況を視察した。第二砲台の適地を探していたのである。この辺りの森は海岸にまで迫り、小さな沼が点在していた。五〇間も滑空するエゾモモンガに驚かされたり、湿原の神などと呼ばれる美しい丹頂鶴を見たりした。
「彼の国とて山はあるであろうから、きっと藤つるもあるべし。その藤つるを編んで海に敷き詰めれば、ロシアの船とて通ることは出来ますまい」
これは会津を出発する前に考えられていた対応策ではあったが、来てみると北蝦夷地の山には藤つるなどどこにも見当たらないという事実と、もしあったにしても猪苗代湖などはるかに及ばない広い海と高い波に敷きつめるなどということは、とてもできない相談だということに愕然としていた。とにかく今、自分たちの持つ武器のみが唯一わが身を守るものとなったということを悟らざるを得なかったのである。
この近辺には平地が少なく、あっても湿地である。その上一面に棘が繁茂して土地が凹凸しており、仮小屋を建てるにも苦労をした。波打ち際からは十間程で山に続く。しかも波打ち際はロシア船から見える場所なので、やむを得ず先年ロシア船に焼き払われた場所の灰燼を取り除き仮営地とした。各隊毎に縄を張り山から伐採した材木や持ってきた油単を使ってようやく雨露を凌ぐことができるようになった。丸木小屋に荷物を置き琉球筵を敷いて武具を置きそれぞれ手配をしてロシア船が渡来しても備えに差し支えないようにしていた。
海岸近くの木立はアイヌ人が伐採しているのでロシア船からの見通しがよいと思われ、このようなところは不安である。いろいろ考えてみたが岩の露出した波打ち際では接近戦に向かない。ロシア船が容易に近づけない所を選び、海岸より引っ込んだ後は山に続き左右は谷に臨み、両方に水の手があり海岸の方に木立があり海からの見通しが悪い所を選んだ。戦いのとき人数の繰り出しに都合が良いと思われたが土地に凹凸があり、平らにするのが大変であった。
四月二十日、ようやく小屋がけが出来た。中央に北原陣将の本営、その西に丹羽軍監の陣営、東には日向隊長の陣営で構成することにした。
雨露を凌げるようになったので、炊事のための時間が割り振られた。朝は六ッ時(六時)過ぎ、午後は八ッ時(二時)頃より混雑したり互いの不作法のないよう足軽二人ずつ出て拍子木を打ち、差配をすることになった。薪については三日ごとに各隊別に山へ伐採、収集に行くことになったが、不足の場合は許可を得れば拾いに行けるとされた。ただしアイヌ人が伐採したり積んで置くものは、持ってきてはならぬ、とされた。
「当所の固めは会津家がはじめである。これ以前にお固めはなかった。心してアイヌ人と接するように」
陣将は、このように訓示した。
四月二十八日、アイヌ人が萱を刈って持参、屋根を葺いてくれた。陣将が礼を兼ねて米を振る舞った。アイヌ人たちは大喜びし、アイヌの女が踊りを踊った。
「なにやら面白くおかしい踊りだな」
そう言いながらも、見よう見まねで手拍子をとった。
「それにしても、あの女たちの唇の入れ墨には、どうも馴染めないな」
誰かがそういうと笑い声が起こった。
四月二十九日、寒く雪が降った。
「国元の十月の末のようだな」
身震いしながら普請場に行ったところ多数のアイヌ人が集まり、大釜で鯨を煮ていた。昨晩小舟で海岸から五~六丁の所で弓で射たという。言葉は分からぬが身振り手振りで理解した。
「それにしてもあのデカいのを、よく獲ったもんだ」
藩士たちは皆感心した。
この工事中にもノトロ岬(干潮の時現れる磯の意)のシラヌシと北蝦夷地の東南端、シレトコ岬の先端、アニュアに見張所を置くことにした。位置はクシュンコタンを中心として、その両翼とも言える場所で、この湾に侵入する以前に敵の動きを看視できる場所であった。また別にもう一つの守備隊を第二砲台とした留於多加(ルオタカ・道が浜辺に続く所の意。戦前の日本名、ルタカ。いまのロシア名、アンパ)に駐屯させるため、大物組頭の原捷重、物頭の伊東祐備、龍造寺隆虎らを中心にして基地の設営隊を派遣した。このように基地や見張りの部署を決め、狼煙を巡らし、昼夜を分かたず監視して予期せぬロシア船の攻撃に備えることにした。
ルオタカはクシュンコタンの本営より五里ほどの距離であったが、ここには、大組物頭の原平太夫を隊長として九八名が警備することになった。ただ一旦ロシア船が攻めて来れば舟での急行が不可能となる。応援を差し向ける際の陸路がどうであるか、平蔵は野村俊文と様子を見に行くよう命じられた。
五月五日、大雪が降った。端午の節句の祝いにアイヌ人たちに酒を振る舞った。酔った彼らは踊りを踊り、相撲を取るなど寒さをものともしなかった。それを見ながら、それぞれが故郷の子どものことを思っていた。
「爺様や婆様、それに女房たちがうまくやってくれているさ」
そんな話に目を潤ませている者もいた。日が暮れて迎えに来た女や子どもに手を引かれて帰って行く姿は、もう、ふらふらであった。
「酔っぱらうとは、あんなものなんだな」
自戒を込めたかのように、しんみりと言う者もいた。
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