七月九日、宗谷に着いた。海中に蜂の形をした岩があるため、アイヌ人はこの岩を蜂岩と言う。この岩が湾の喉元を扼することで良港であるこの宗谷の名は、この理由によるものである。陣将は組頭・香坂宗光を上陸させて軍の様子を報告させた。
「軍中には一人の病人も罪を犯すものもなく、精一杯力を合わせることが出来た。去年の冬、津軽藩の北蝦夷守備兵が冬季に死者七十余人を出したというが、いまわが藩士は冬夏の異常気象にもかかわらず誰一人損なわなかった」
また宗谷から片峰勝典を来させて、その様子の報告を受けた。
「内藤軍将の若党・忠治という者が三両の公金を盗み、逃走して港の船に隠れたところを船頭に捕らえられて引き渡された。忠治は見せしめとして斬首された」
それを聞いた平蔵は、おそらく忠治はカネそのものが目的ではなく、家に帰り着きたい気持ちから盗んだのではないかと想像し、辛い気持ちになった。今回派遣された藩士には藩から特別の恩賞が与えられるはずであった。忠治とてこれを知らなかった訳ではあるまいが、何故こんなことをしたのであろうか。加賀山盛正・雲省またの名・渭陽という従軍している名医官も派遣されていた。藩士の健康を心配したからである。
例えばあるとき、第一隊長の山田直保配下の兵が瘴毒に当たり数十人が発病した。腿が青黒い色に腫れ、後に全身に浮腫が出て治らなかった。渭陽が次のように言った。
「これは医宗金艦で見ると、いわゆる青腿牙疳之症(壊血病のこと。下肢の青色の腫塊を伴う)とは少し異なるが病根を抜き去るしかない。のぼせ病は黒いところを治療しなければならない。つまりそこが病根となるからである」そこで渭陽は病人の黒いところに針を刺し、悪血を出して薬を服用させたところ皆快癒した。渭陽は名医であった。利尻島、宗谷、松前で、平蔵らとは別の隊の合わせて五十人が病死しているが、これらは皆同じ病気であった。もし腕利きの渭陽がいなかったら、平蔵の隊からも死者が出たかも知れない。そんなにも藩は、藩兵たちを気遣っていたのである。
──それにもかかわらず忠治は・・・。
北蝦夷地は酷寒の気候のため竹が生えない。しかしここ宗谷では山に竹藪が満ちあふれ、人家は皆竹の葉で屋根を葺いている。
──景色が少し、会津に似てきた。
平蔵はそう思った。国元の景色の和やかさが思い出された。
この日藩兵たちはイルカを捕獲してきた。イルカは舟に引き上げられても目をむき、悶えて暴れ回っていた。
七月九日の申刻(午後四時)過ぎ、宗谷を出発した。薄暗かったが、遙か遠くに禮布牟志利島(レフンシリ・礼文島=沖の島の意)が見えた。中国語では洋島という。この島は利尻島の西北に隣り合った島である。
七月十日、空が陰って波が高くなってきた。未刻(午後二時)、麻志計(マシケ・増毛郡増毛町=カモメの多い処の意)の沖に入ったころから船頭も驚くほど東風が強く、大雨となった。兵庫の船頭たちの心配していたことが、現実となったのである。慌てた船頭は風力を避けるために帆を下ろそうとしたが、風が強くて収容できなかった。黒風濁波の中を一昼夜漂流した。
不安な一夜を過ごした七月十一日。朝になると雨は止んだが風の勢いは昨日の倍も激しく、危険に感じられた。甲板に積み込まれ、ゆわえつけられていた大筒が波の動きとともに軋み、綱からの解放を叫んで咆哮しているかのような音を立てていた。
「波は大きいが松前までの半分まで来た。もう少しの辛抱だ」
船頭たちの励ましの声を聞いて、平蔵は弱気を隠すかのように周囲を眺め回した。皆目を大きく見開き、不安と戦っている様子が、ありありと見えた。
また大筒の綱が呻いた。
午後になると大雨とともに東から怒声を上げて風が吹き、船は倒れるかのように揺れてきた。大筒を押さえ込んでいる綱の音はギーギーと悲鳴に変わり、擦り切れるのではないかという心配も出てきた。船頭は帆を下ろそうとしたが風が強く、作業がなかなかはかどらなかった。それらを見て、誰かが息も絶え絶えになりながら船頭に嵐の状況を尋ねた。船頭が答えた。
「大丈夫です皆さん。憂えることは百に一つもありません」
平蔵はそれを聞きながら、船頭は皆が意気消沈するのを恐れてそう言っているのだろうと思った。風波の音が激しく、足下の船が砕けるのではないかとの不安が一杯で神仏に祈り、故郷の妻子を思っていた。
──俺は必ず帰ると約束した。大丈夫だ。
平蔵も必死に神に祈っていた。
遂に船頭たちは全員髷(まげ)を落とし、ざんばら髪となって物にすがりつき、ひれ伏すようにして神に祈っていた。その姿を見てさらに不安になる藩士に叫んだ。
「人事は尽くしたが力は尽きた。あとは神に祈るのみ。皆で神助を祈ってくれ!」
その言葉も終わらないうち、一声、メリメリバリバリと帆柱が折れて波にさらわれた。ところが帆綱は切れなかったので帆柱に船が引っ張られ、幾度も横倒しになりそうになった。船頭が漕ぎ手に命じて、ようやく綱を切ることが出来た。帆柱が流れ去ってやや安定はしたが、怒濤は舟を揺さぶり高く吹き上げ、藩士の乗るところに安定はなかった。千六百石積みの正徳丸が、まるで一枚の葉のようであった。
嵐から逃れるためには、船の積荷を投げ捨てても船を軽くする必要があった。あらゆる積荷や個人の物まで、惜しげもなく投げ捨てられた。それでも舟長は、陣将で家老の北原采女に迫っていた。
「全員の命を救うため、大筒と弾薬を捨ててくれ!」
「駄目だ。これは殿からの預かり物。わしの一存で投棄などできぬ!」
「見ての通り帆柱さえも折る嵐、大筒を押さえている綱が切れたら、怪我人どころか死人も出かねぬ。沈没でもしたら大筒どころではあるまい。それにもしこのままロシアにまで流されて捕らえられたら、大筒を見て攻めてきたと勘違いされ、難しい事態になることも考えられる!」
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