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『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2009.07.05
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 安政元(一八五四)年、幕府とロシアは日露和親条約を締結した。ところがこの条約が結ばれたにもかかわらずロシア兵が北蝦夷地のクシュンコタンを占拠し、和人を追い出して在番の松前藩士を幽閉してしまった。松前藩は直ちに救援の一隊を北蝦夷地に出向させ、さらに閏七月初、藩士五十名を後続隊として北蝦夷地へ向かわせた。しかし松前藩からは、「ロシアの南下侵攻は激しく、放置すれば松前一藩では護りきれないので他藩の協力を得たい」という依頼が幕府に届けられていた。
「このままでは、北蝦夷地はロシアに取られてしまいます」
 平蔵は、歯ぎしりをする思いであった。彼の脳裏には、あの清国の阿片戦争が悪夢のようによぎっていたのである。
「諸外国は、われら東洋の武力を弱いとあなどり、力に任せて好き勝手をしています。日本も軍事力を持たねばなりません」
 平蔵は苦しげな顔をする采女を見て、自分との考え方に差があることに気付きはじめていた。
 間もなく松前藩任せの防衛では無理との判断した幕府は、蝦夷地の直轄を決めた上で津軽藩、南部藩、仙台藩、秋田藩、松前藩の五藩に分担警備させ蝦夷地防衛の強化を図りながらアイヌ人の本格的な和風同化政策を始め、和人の蝦夷地への入植を奨励した。
「御家老様。喜ばしいことです。幕府もようやく、その気になったようです」
 そう言う平蔵と、采女は久しぶりにゆっくりと話し合いをした。この秋、容保は前会津藩主の松平容敬の娘・敏姫と結ばれることになったのである。
 安政四(一八五七年)年の十月、清国と英仏連合軍との間で戦争がはじまった。
「なんでも、イギリス船籍を名乗る清国船アロー号に対して清国の官憲が臨検を行い、清国人船員十二名を海賊の容疑で逮捕したことからはじめられたそうです」
 平蔵は采女にそう言った。
「実際には、事件当時、既にアロー号の船籍登録は期限が過ぎていて清国籍になっていたから、清国官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であったと言うではないか?」
「そのようでございます。とにかく阿片戦争と言い今度の戦争と言い、西洋のやり口は力ずくのごり押しのようです。わが国としましても清国の轍を踏まぬよう、心せねばなりません。外国の縄張り争いの、犠牲になってはなりません」
 それを聞いた采女の顔は、一瞬ゆがんだように思えた。
 安政五(一八五八)年にはプチャーチンが再び長崎に来航して、新たに日露修好通商条約が締結された。これにより、下田・箱館・長崎の三港が開かれ、日露の国境は千島列島の択捉島とウルップ島の間とし、唐太はこれまで通り雑居地として日露の正式な国交が開始された。そして翌年、すでに出兵していた津軽、南部、仙台、秋田藩に加え、荘内藩と会津藩も蝦夷地分担警備を命じられた。
「高津。また北方警備のお鉢が回ってきた。しかし前回と違うのは、わが会津藩の分領を守るということだ。前筆頭家老であられた田中様のご遺志が生きた、ということになるな」
「はい。たしかにわが藩領となったのは、蝦夷地の士別から紋別、斜里、知床、標津の広大な地域です。その地に和人が少ないため、その悪影響に害されず、アイヌ人の協力が得やすいと考えていた所でした。私も先代筆頭家老の田中様の先見の明にただただ恐れ入るばかりでございます」
「うむ。結局蝦夷地に分領を得たのは、北方警備に派兵したわが藩をはじめ仙台・秋田・庄内・南部・津軽・松前藩のみであった」

会津藩領
 安政七(一八六〇)年、英仏連合軍は北京を占領し、ロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に北京条約が締結された。この条約により清国は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航はイギリスによる許可が必要であることなどを認めさせられることになった。
「この戦争の調停に入ったロシアは、それまで清露両国の雑居地であった沿海州を正式に獲得することになった。それにアメリカとロシアは戦争には加わらないまま、条約改正には参加したという。まるで漁夫の利だな」
「はい。それにロシアの東シベリア総督ムラビヨフ・アムールスキーが来日し、北蝦夷地を日本との雑居地と決めながらそのすべての領有を主張しているそうです。その上でロシアは軍艦ポサードニク号を、またイギリスもアクチオン号を派遣して対馬の租借を要求しているそうです」
「それでは清国の香港や九竜のようになってしまうではないか」
「そうです。これでは昨年に調印した日露修好通商条約が、なんのためであったか分かりません。それにアメリカは、伊豆大島の租借を要請したそうです」
「伊豆大島と言ったら、江戸とは目の前ではないか。そんな要求までしたのか」
「どうもそのようです。ロシアに限らず西洋の国は、自分たちの国益のためなら、どんな無茶でも主張してくるようです」
 険しい顔をして、采女は話題を変えた。
「ところで蝦夷地へ派遣した藩士は毎年交代勤務とし、今年の二月には、田中鉄之丞が藩士二〇〇名を連れて会津を出立、三月には箱館に着いた。そして五月には東蝦夷地を経て分担領内に入り、斜里に本陣、紋別と標津には出張陣屋(代官駐在)を置き、標津、斜里、紋別を巡回して藩兵を督励していた。しかし六月に入って鉄之丞は病になり、その帰国の途中の七月三十日に東蝦夷地の勇払で病没してしまった」
「左様でございました。藩では民間から大船を借用して新潟港に止め、往航には藩士の生活必需品などを送り、復航には、知床硫黄山ではじめられた採掘事業による硫黄や、その他、蝦夷地の水産物などを底荷として運んでおりました」
「うむ。そのまま過ごせればよかったのだが、あれから『桜田門外の変』が起きた。わが殿・容保様は急遽、江戸詰めとなられ、そして十二月十二日には、左近衛権中将に任ぜられた」
「殿は、『桜田門外の変』では水戸藩討伐に反対なされておられましたが」
「そうであった。しかし井伊様暗殺直後に一橋慶喜様や、政事総裁
職となられなった福井藩主・松平慶永様らに推され、わが殿が京都守
護職に推された。元々ご病弱な体質でこの頃も風邪をひき病臥してお
られるが。はて、どうなることか」
 そう言って采女は腕を組んだ。やはりこの話になった、と思ったのである。
「まことに。わが藩が蝦夷地や江戸湾防備の大任ばかりでなく、今度は京都の警備までを命じられるとなると、これは一大事でございます」
「ところで高津、今の風潮をどう思う?」
「いや、確かに難しい時代となりました。それも分からぬ訳ではありませんが、時代の変化も考えねばならないと思います。あの北方警備さえ昔になってしまった今、外国の脅威がこんなに大きくなるとは考えもしませんでした」
「うむ。しかしわしは、神君家康公以来の祖法を守るべきと考えている。徳川幕府開闢以来のこの泰平の歴史を思えば、当然ではないか?」
「しかし御家老様。お言葉を返すようですが、時代の変化という理由のみで開国を主張している訳ではありません。開国する前に、ロシアやイギリスに負けないだけの軍備を持っていなければならないと思います。さもなければ、この国は成り立ちません」

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最終更新日  2009.07.06 12:05:28
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