◎関場春武 文化四(一八〇七)年~慶応四(一八六八)年
利尻島派遣 関場友吉春温の長男
父の友吉が利尻島で病死したため、春武は二歳で家督相続をし
た。戊辰戦争のときは六十二歳となっており、老齢のため軍役を
許されなかったが再三嘆願して敢死隊差図役となり、城下の西で
戦死した。敢死隊は鶴ヶ城が包囲された慶応四年八月に藩下の町
民を募って作られた義勇隊である。享年六十二歳。
◎ 山内俊温 (やまうち としあつ)生没年不明
佐渡派遣
文化四年暮れ、諸隊士を唐太(樺太)へ派遣することになり、
その準備中に家伝の陣中秘薬と題する一書を献上して、陣中の参
考に供し、さらに役料三十石を加えられた。翌五年には伊北郷か
ら旧臣の子孫を集めて小川庄(新潟県東蒲原郡)に派遣し、準備
させた。そこの津川港から唐太へは海路が通じるので、国境警備
の意であった。また許しを得て湯治の名を借りて佐渡へ行き、海
岸を巡視し、防衛の意見を述べた。
◎ 山川兵衛重英 天明三(一七八三)年~明治二(一八六九)年
宗谷派遣
兵衛は会津に戻った後の文政三(一八二〇)年に勘定奉行、天
保三(一八三二)年に若年寄、同十年には家老に昇進した。慶応
四年の戊辰戦争においては顧問に任じられ、八十五歳の年齢で登
城した。会津藩の降伏後、耶麻郡水谷地村(喜多方市)で病身を
養っていたが明治二年病死した。当時、北方警備唯一の経験者と
思われる。享年八十六歳。
山川常守 生没年不詳 山川兵衛重英の四男
戊辰戦争白河口の戦闘で戦死した。
山川浩(大蔵)
弘化二(一八四五)年~明治三十一(一八九八)年
山川常守の甥 会津藩家老
十八歳で物頭となり、文久三(一八六三)年には守護職として
京にある藩主容保の君側に奏者番として侍した。慶応二(一八六
六)年、幕府の樺太境界議定団に随行してロシアに渡航。祖父の
関わった樺太に、深く関与することになった。鳥羽伏見の戦闘で
は敗兵を収容し、戊辰戦争では日光口を守備、籠城中には防衛総
督を務めた。開城後は斗南藩大参事。五十三歳で死去。なお浩の
次男に明治・大正期の教育者の男爵・山川健次郎。三女に山川捨
松(咲子)がいる。
◎ 梶原平馬景雄
天保十三(一八四二)年~明治二十二(一八八九)年
北蝦夷地派遣・普請奉行 梶原佐右衛門の養嗣子
内藤介右衛門信頼の次男であるが梶原佐右衛門の養嗣子となっ
た。兄にのちの家老・介右衛門信節、弟に彰義隊員で獄死した武
川三彦信臣がいる。平馬はアーネスト・サトウ」とも交友があり、
鳥羽伏見の敗戦後横浜でエドワード・スネル(弟)から武器弾薬
を購入、船に積んでヘンリー・スネル(兄)や河井継之助ととも
に新潟港から陸揚げした。しかし新潟港を占領され、長岡城と二
本松城を失うと会津に帰り、鶴ヶ城に籠城した。開城後は会津藩
幹部として東京・因州因幡藩邸池田屋敷に幽閉されたが赦免、斗
南藩に移住し上市川村に住む。その後青森県庁に庶務課長として
勤め、明治五年辞職、北海道函館へ渡る。明治十五年函館から根
室へ移住し根室県庁庶務課に勤める。四十七歳で死去。
(墓は根室の市営西浜町墓地)
◎北原きよ 文化二(一八〇五)年?~慶応四(一八六八)年
利尻島派遣・家老陣将 北原采女光裕の息子の嫁で采女光美の母
慶応四年八月二十三日、若松城下西郷勇左衛門邸で自刃した。
享年六十三歳。
会津鶴ヶ城落城に際しての一五〇人に及ぶ婦女子の自刃は、江
戸時代を通じて前例がなく、史上にも稀な事件とされている。
北原軍太夫(采女光美の兄弟か?)五百石
朱雀士中三番上田隊半隊頭となり、七月一日、白河・羽太先で
戦死。
北原四郎 軍太夫の弟 朱雀寄合二番田中隊に所属
八月二十九日、若松長命寺にて戦死、享年二十一歳。
◎日向内記 文政九(一八二六)年~明治十八(一八八五)年
北蝦夷地派遣・番頭 日向三郎右衛門の長男
禁門の変に番頭組の組頭として参加。慶応四年三月の兵制改革
で朱雀士中二番隊頭となり、その後砲兵隊長として日光口に赴い
た。四月十八日、藩主護衛の任にあった白虎士中二番隊頭に任命
され、籠城戦に移った八月二十七日頃、城内において白虎士中一、
二番隊の生存者を中核として白虎合同隊が編成されてその隊長と
なった。また援軍の郡上八幡・青山藩の凌霜隊もその指揮下にお
かれ西出丸の防衛に当たった。
八月二十二日、白虎士中二番隊を指揮し、先発・後発と隊を分
けて戸ノ口原へ出陣。その夜、隊を離れる。切腹しながらも唯一
生き残った飯沼貞雄(貞吉)の証言によれば『食糧調達』と言う。
その間に白虎隊の悲劇が起こった。明治三年の冬、斗南藩(青森
県)へ移住。しかし明治六年に会津へ戻り、喜多方に居を構える。
喜多方では定職につかず、明治十八年十一月十四日、裏切り者、
卑怯者の謗(そし)りを弁解することもなく、不遇のまま六十歳
でこの世を去った。墓は喜多方市北町の万福寺にある。
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