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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年05月05日
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カテゴリ:城(中国)
まだ小早川茂平の紹介が続きます。


古い時代の文書には、領家との土地トラブルなどで幕府の裁定を仰いだものが
いくつかある。
その中で最も笑える・・・いえ、興味深いのが文永3年(1266)ので、
言ってみれば被告の立場で茂平が登場する。

原告は、新荘椋梨の3代目・竹王丸(前々回の系図では定平)。
新荘系の初代が茂平の弟だから、竹王丸からすれば茂平は大おじさんにあたる。

沼田荘での活路を切り開いたやり手の大おじさんに対し、
大甥が不服を申し立てるってのも結構すごいと思うけどね泣き笑い
しかし、中身はもっと笑える。

ちなみに、茂平の生没年は系図には書いてありません。
ウィキペディアには「1264年死没」とあるけど、
どこから持ってきたものなんでしょう。

ただ、文永3年の時点ではすでに茂平は出家しており、
さらに裁判には代理人を立てているので、かなり晩年であることに違いはないと思うけど。
あるいは、裁定の申し込みから実際の審理が始まるまでに時間がかかって、
その間に被告死亡に至った可能性もあるかもしれない。


で、その中身ですが・・・
まずは竹王丸の言い分から。

「そもそも安直(あちか)・本荘・新荘の3ヶ所は、
御先祖様の土肥遠平公が勲功によって拝領したもので、
それを養子の景平が継いだもの。

安直と本荘は大おじちゃんが、新荘はうちのジイちゃんが
もらったものなんだよね。

新荘のうち福田・椋梨・高崎・大草の4つの村は
うちのパパが管理してて、それをボクがもらった訳さ~。
それは、幕府もちゃんと認めてくれたんだよ。

なのに、大おじさんは惣領だからと言って
新荘で好き勝手ばっかりしてる。
これ以上の無体な乱暴は、即刻やめていただきた~い!!」



対する茂平の代理人は、

「安直・本荘・新荘の3ヶ所を遠平様が拝領したことについては、
今さらくどくど申し上げるまでもありませんな。フンダッシュ

惣地頭のことは、遠平様・景平様の譲状に
ちゃ~んと書いてあるではありませんか。

これまでの惣領としての約50年間、
小地頭の取り分についてモメたこともありませんし、
何を今さら・・・

右大臣家や二位家からも下文はもらっておりますし、
遠平様・景平様の譲状の通り、竹王丸殿には慣例に従って
粛々と惣領の命に従うよう、裁定をお願いしたいですな。」


スタートはこんな感じ。
例によって超意訳で多少の脚色も入ってますが、
雰囲気を味わっていただければ(笑)。

惣地頭も小地頭もどちらも地頭なんですが、
惣地頭は統括者っていえばいいのかな。
要するにここでは、新荘が茂平の支配下にあるかどうかが争点となっている。


この文書、実はすごく長いんです。
ので、ここでは茂平が新荘でどんなご無体をなされたのかだけ
簡単に紹介しますね。


 <罪状>

  1.預所からもらった新荘の成富名を拠点に周囲の土地を取り込み、
    自己の所領に組み入れた。

  2.2年前、竹王丸の父・国平が新荘内のヒノキ3,000本を伐り出して
    沼田川を下ろしたところ、茂平に没収された。

  3.新荘に押し入って紺灰を作るために木を焼いた。

  4.新荘で狩猟をした。

  5.新荘で鷹の子をつかまえた。

  6.牧垣を勝手に作った。

  7.新荘の役人を勝手に自分の代官にした。


とか何とか泣き笑い

なんか、新荘で無茶苦茶やってるジイさんを思い浮かべてゲラゲラ笑ったもんだけど、
これらのご無体のおかげで、当時の沼田荘の様子が垣間見える。



まず、2のヒノキの3,000本てのは借上人に渡そうとしたもののようで、
すでに新荘が独自に商人と結びついていたことを表す。


木・・・でちょっと思い出したことがあったので脱線しますが、
遠い昔、律令制ができた頃、中央集権のために中央と地方を結ぶ官道が整えられた。

7つある官道のうち、大宰府と都を結ぶ山陽道は最も重視され、
約16キロごとに駅が設けられた。
小早川領では、真良・梨葉・都宇の3つに駅があった。

それが、9世紀頃になると陸路よりも海上輸送の割合が増えてくる。
どうも安芸の陸路は不便だったらしいんだけど、
瀬戸内海の航路は早くから開けていたという。

安芸には船材が豊富で、遣唐使船の造船なんかにも貢献したらしい。
その名残が各地にある「船木」の地名で、沼田荘にも船木があり、
かつ新高山城と高山城に挟まれて狭くなっている箇所の北にまで
海が入り込んで入江を形成していたことから、沼田荘(当時は沼田郡)でも
造船が行われていた可能性があるんだそうな。



で、この話は一旦ここで置いておきますが、
3の項目は、別に茂平が焼き討ちマニアなんじゃなくて(笑)、
草木染めのための灰を作ったということらしい。
ここから、沼田荘で紺染めが行われていたことがわかる。


4・5の2つは武士らしい話というか・・・
小早川家は武家なので、他の武士と同じように
武芸の鍛錬のために狩猟を好んで行っていたということなんでしょう。

また、年貢から本荘と新荘のそれぞれに、白皮をなめしたり皮染めをする職人が
いたことがわかっているので、あるいは経済的活動の一環でもあったかもしれない。

5の鷹の子を取ったというのも狩猟に関連する話で、
鷹狩りに使う鷹の飼育が行われていたということになるらしい。

6は牧垣を作ったということなので、馬の飼育、
あるいは放牧が行われていたと考えられる。


ということで、2は庶家が早くも自立して商業資本との連携を始めたこと、
それから「船木」の地名や他にも「木引谷」などの地名が荘内にあることから、
元々木材が豊富な地域の上に林業を行っていた可能性を窺わせる。
新荘内には、米の代わりに弓を納めてた地域もあったようだしね。

で、3~6が手工業、狩猟・牧畜業を示唆しているので、
領家などとのせめぎ合いの中でも、着実に小早川氏が根を下ろしていった様子が
想像できる。


他にもだらだらと論争が続いてるようですが、ひとまずこの時は
茂平は新荘で勝手をしないこと、ただし幕府の公事に関しては
新荘は惣領の命に従うこと、という裁決がなされている。




上は本荘と新荘の一族間での争いですが、
外部とのバトルももちろんありました。

都宇・竹原荘は承久の乱で鎌倉方に味方したことにより、
茂平に地頭職が与えられたものだった。
本所は下賀茂神社。

仁治元年(1240)、ここの荘官と茂平の間で相論が起こった。
茂平はここでも代理人を立てて参戦。

まあ、どこでも領主側と地頭との間のトラブルに共通するのは、
土地の問題(=地頭の横領)と職務権限の範囲についてなので
それについてはここでは割愛しますが、竹原での相論の中では
川と山での収穫物に関するものも含まれている。


面白いのが川での猟で、当時の慣習として

 領家 ⇒ 預所 ⇒ 地頭

の順番で猟をしていたんだそうな。

あと、山の畑などに関しては国例に従うこと、という裁決がされている。

時代が時代なんだから、国例なんていったら領家側が強いに決まってんじゃん・・・
て力関係が窺われて、面白いな~と思った。



こうした幕府の裁定の記録というのは、やはり初期の文書に多いんだけど、
なんてゆーのか・・・
とにかく躍動感があって、読めば読むほど面白い。
争点となっている事柄を裏返せば、当時の色々な状況も見えてくるしね。

茂平やその子たちの相論の記録を見ながら実際の様子を想像してみると、
なんかアメリカの西部開拓時代とかとイメージがダブるんだけど(笑)。

ああ、彼らはフロンティアだったんだな~

ってカンジでくま

まあ、小早川氏は開発領主じゃないから実際は違うんだけどね。
個人的なイメージとして、ってことで。


特に、茂平の場合は在地領主の力が強く、
かつ初めて行く土地へ進出するという高いハードルがあった訳だけど、
さらに弟・季平と所領を分けあうという、
小早川家の中で初めて分割相続が行われた代でもあったから、
一族内の惣領と庶家が対立するという、これまた初めてで難しい問題も抱えることになった。

領家に対抗して土着していくためには強い意志が必要だけど、
強すぎると庶家の反発を招くし泣き笑い

他に面白い話として、茂平は字を知らないといわれてるんだそうな。
何を元にしてこう言われてるのかは、今の私にはわからないんだけど、
長く在京していて字を知らないなんて、そんなことアリなんだろうか・・・

きっとそれは、京で知り合った誰かの日記あたりに書かれてるんだろう。
どうやって書かれてるのか、知りたいな~。


京といえば、茂平はほとんど京に常駐していて、
必要な時だけ沼田に帰ってきてたみたい。
在京の間には荘園領主ともお近づきになって、そのパイプを通じて
現地での支配力を高めたようでもあるんだよね。

アクの強さだけでなく、このタフさも私は好きだな音符


それにしても、裁判の中身の細かいこと!
各地の西遷御家人のほとんどは領主側と同じようなトラブルを抱えて、
幕府に相論が持ち込まれたでしょうから、受理する側も大変だな~と率直に思った。

やっぱり、竹王丸から訴えられた時も審理の開始までに時間がかかって、
順番が回ってきた時にはすでに茂平はこの世の人でなかったかもしれないよな。
まあ、文書には「故」とは書かれてないけどね。


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最終更新日  2015年11月23日 17時03分58秒
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