秘録 凌霜隊始末記(37)
結局、山脇金太郎、牧野平蔵、浅井晴次郎、野田弥助、小三郎の五名が戻らなかった。茂吉は隊長として五名を犠牲としたことに悔いを残し、心のなかで詫びていた。全隊士をここまで率いてきたという、重苦しい意識が、日々、彼を悩ましている想念であった。「隊長、あなたの責任ではござらん」 坂田副長が慰めの言葉をかけてくれる。「原因がどうあろうと隊のことは隊長である、わたしの責任です」 茂吉が慙愧の思いで大内峠を眺めている。また氷雨が降り出し、陰鬱とした濃霧が立ち込めている。「隊長、まだ戦死と決め付けるのは早い、しかし、ここを敵に襲われたら不味い、ひとまず関山まで撤退しましょう」 速水参謀長の進言で一行は心を残し関山に退いた。 関山は大内峠から半里北に位置している。本営に着くと大内峠の敗戦について諸隊をあげて指揮官の、小山田伝四郎の失策を非難していた。「朝比奈隊長、貴隊の損害はいかがです?」 遊撃隊長の唐木助之進が訊ねた。 「五名、戻ってまいらぬ」 坂田副長が不機嫌な口調で答えた。「我等のために済まないことです」 この戦闘で小山田伝四郎は、指揮官として失格の烙印を押された。 九月一日、大内峠から逃げ戻った諸隊は、態勢を整え配置についた。この関山は矢張り左右が高地で、左の山ぎわに川が流れていた。この川は横川から流れているのだ。村落の入口には格好の小山がある。軍議の結果、川向こうの山に二隊、村落の入口の小山に一隊が配置され、本営の裏山に凌霜隊が守備についた。早朝から氷雨をついて敵が来襲し、砲撃と銃撃を浴びせてきた。 味方も盛んに応戦し、終日射撃戦が続き日暮れとともに、戦闘を停止し対陣した。夜になると敵味方とも、赤々と焚火を炊いて探りの砲撃を繰り返す。 この夜に行方不明の牧野平蔵と浅井晴次郎の両名が帰還してきた。数日後に野田弥助も戻ってきた。彼は会津藩兵と二人で山に隠れ、二日間何も食べずにいたが、峠の北西にあたる市野村の人足の衣装で敵に捕まるが、人夫と偽り、すきを見つけ逃走してきたという。 山脇金太郎の消息は依然として不明で情勢判断から、戦死したものと推定された。小者の小三郎は峠で血塗れの死体で発見された。 兎に角二名の損害で済んだが、茂吉の心は晴れない。特に山脇は同年の十七才である、それを思うと生き残った自分が恥ずかしい。 茂吉は金太郎の戦死を伯父の郡上藩士、山脇正順に報せた。軍学者として江戸で講武堂をひらき、各藩の逸材を集め教授する山脇正順は、甥の金太郎の死を悼み。「にしきなす大内山の もみじ葉を散らしてなれも散りにけるかな」と追悼の歌を詠んだと云う。 (若松へ撤退) 九月二日、この日の戦闘は昼頃から始まるが、砲戦で終始した。唐木隊の陣地に榴散弾が撃ち込まれ、爆風と土砂が藩兵を襲うが、胸壁から離れず反撃する。村落の入口の小山の陣は、会津藩の横川隊の受け持ちであったが、三方面から猛射を浴びるが、ここも頑強に持ちこたえている。政府軍も攻めあぐんだのか、午後二時頃に砲声が止んだ。「敵さんも疲れ休憩ですな」 副長が前方の様子を窺がっている。「いや、ここを破れば一気に鶴ヶ城に攻め込めます。戦術転換をしているのかも知れませんよ」 茂吉はあくまでも慎重であった。 薄暮が訪れ戦場に静寂がおおい、援兵が陸続と集結してくる。最後の砦ともいう、この関山の陣を重視した隊が応援に来たのだ。 真っ先に清龍足軽二番隊が、諏訪武之助隊長に率いられ参陣してきた。なかにフランス別伝習隊の歩兵が特に張り切っている。 全軍の士気があがり、何時ものように焚火が焚かれ、探りの砲声が轟いている。情報によれば、政府軍は千余名ほどだそうだ。「明日は敵さん、総攻撃をかけてきますな」 速水参謀長が剽悍な眼差しで語りかける、こうした勘は流石に鋭い。隊士たちは胸壁に身を隠し兵糧をつかっている。炊事方の小者が握り飯に味噌をつけ焼きあげてくれた物だ。 塩原を発つ時に和泉屋が差し入れてくれた味噌であった。「これは美味い」 全隊士が焼きたての握り飯をほうばっている。 茂吉も口にして、お園の面影を思いだしていた。きっと生還します、それまで待っていて下さい。祈るような心地であった。 南方方面から、遠雷のような砲声がえんえんと聞こえていた。「畜生め、また降りだした」 隊士たちが合羽をかむってうずくまった。 会津領内に入ると連日の雨である、日毎に寒気が増し露営の身に堪える。「隊長、明日に備えて少し休んで下さい」 速水参謀長が茂吉をいたわり、傍らで合羽姿でうずくまった。 この頃、鶴ヶ城は籠城のなかで必死の抵抗を示していた。秘録 凌霜隊始末記(1)へ