イエス様を仰ぎ見ると言うのは、
確かに正解で、
仰ぎ見ている間は、
(敵が自分の心に侵入できないでいて、)
心が落ち着いているのがわかる、
一昨日、引き寄せの法則、罪の性質は悪(災い)をひきつけるで、
JPJが言った、
心に敵の侵入を許さない、
*ネガティブ、自己中心は、
敵へ、侵入の扉を提供したことになる、
敵への扉を閉めるには、神に向く、
この通りである、
又、 先日、
続)不安の対処 Christ-Centeredで経験した、
自分のなすべきは、
キリストのように振舞うことでも、
キリストの言葉を覚えることでもない、
この絵の通り、
”戸口の外にランプを持つキリスト”
既に、キリストは、
自分の心の外で、スタンバイ状態にある、
よって、自分のなすべきは、
心を開くだけであるところ、
後は、キリストの独断場、
これも同じこと、
こーして見ると、最近、同じことを、
形を変え、表現を変えて、
体験しているような感じがしないでもない、
で、実は、
自分が信仰を持ち始めた頃から、
ズット同じことが続いている、
イエス様を意識している時は、OK、
意識していないと、ダウンする、
と言うか、別の変な思いが自分を支配する、
上の”戸口でランプを持つキリスト”を例にとるなら、
(心の)扉を開けると、
開けた瞬間は、気持ちが楽になるが、
彼を常時、心に入れることはなくて、
気持ちが楽になると、マタ、扉を閉めてしまう、
これの連続、
ソーして、かれこれ、30年、
今日、思ったのは、
この世の中を生きている限り、
敵の攻撃は止むことがなくて、
自分の心と言うのは、
イエス様か、あるいは、
それ以外(敵のこと)の選択肢しかないんじゃないかって、
別の言い方をすれば、
イエス様が心にいない(意識していない)時は、
敵の集中攻撃を受ける状況になっているのかしらと、
すると、
イエス様を仰ぎ見るのは、
24時間の必須マターであり、
間を空けたが最後、
敵に、ドーぞ入って下さい、と言うこと!?
今、マリンズのユダヤ史を見ているけど、
この狡猾な、彼らユダヤ人の手口を見るにつけ、
(ホントに、彼らは狡猾である!!!
こんなのが、世界を牛耳っているのかと思うとゾッとする、)
マリンズが言うところの、
「この世を生き残るには、ユダヤ通になること、」
は、なるほどと思わせてくれるのだが、
しかし、これは、
ある意味、最低条件であり、
むしろ、こちらの、
「過去にさかのぼり、
歴史的にユダヤ人の事実・所業を知り、
なおもキリストを否定するなら、
その人は真底、破滅しているのである、」
このコメントが、改めて、自分に迫ってくる、
イエス様の存在は、
時々、思い出してーー、
と言うレベルではない、
1日、24時間、1年、365日、
常時、心にいてもらわないと、
敵(サタン)に乗っ取られてしまう、
これが、今日、初めて、
自分に理解としてやってきた、
そして、今夜のジムの帰り、
「仰ぎ見るやな、仰ぎ見るやな、ーー」
と思いつつ、
家が近くになったところで、
”仰ぎ見る”の代わりに来たのが、これ、
胎内仏のイメージ、
そう、今まで、仰ぎ見ていたイエス様、
いつの間にか、自分の体の中に来てくれて、
デーンと構えていた、
こーなると、
もうあとはドーでもよくなってきた、
もはや、一体である、
失敗も成功も、常に一緒、
何が起こってもいいような、
これだけでもすごいのだが、
しばらくすると、
さらに、変化してきた、
今度は、自分が胎内仏で、
イエス様が自分になってしまった!?
即ち、イエス様の中に、
自分がスッポリ入ってしまった状況、
ああ、ドーなっちゃうんだろう、
とりあえず、今日はここまで、