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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号00(その1) 10まで進んじゃったけど ちょっと戻って背番号00を紹介するよ NPBで初めて「00」が使われたのは1988(昭和63)年 なんとタイガースの選手が史上初だったって知ってた? 数学的な数字は0から1、2、3と進むけど「00」はないわね 数字というよりデジタル表現みたいなもので背番号としても異質なのよね 着けたことのある人も少ないの 2023(令和5)年現在までで9人です ???35年間で9人というのは多いとも言えるのかな???
ルパート・サンダーソン・ジョーンズ 外野手 1973(昭和48)年にカンザスシティ・ロイヤルズに入団。1976(昭和51)年にメジャー初昇格するも 翌年には新球団シアトル・マリナーズへ移籍する。 マリナーズ時代はすべて規定打席をクリアしており、3年間で51本塁打を記録するなど活躍している。 その後も4球団を渡り歩き、1987(昭和62)年までのメジャー通算記録は1331試合4415打数1103安打579打点147本塁打で、打率が.250というもので、日本に来る助っ人選手としては上の部類かもしれない。 1988年のタイガースは第二期村山監督の1年目で、バースが長男の治療問題で退団したことによる緊急補強としてやってきたのがジョーンズだった。なぜ背番号「00」だったかはよくわからない。 しかし、シーズン途中に日本に来るような選手は何らかの問題があることが普通であり、ジョーンズは肩に故障を抱えていた。外野ではまともにカットマンに返すことも困難な状況で、打撃にも影響して期待を裏切る結果となった。 タイガースでの成績は、52試合169打数43安打27打点8本塁打、打率が.254だった。当然1年で解雇となったのは言うまでもない。
亀山 努 外野手 背番号「00」はジョーンズが退団したあと3年間は誰も着けていなかった。1992(平成4)年になって亀山努が着けることになる。 亀山は俊足を買われて、1988(昭和63)年にドラフト外でタイガースに入団している。入団時にもらった背番号は「67」だった。 1990(平成2)年にウェスタンリーグで首位打者と盗塁王に輝き、1991(平成3)年にも2年連続で首位打者のタイトルを獲得。 この実績を引っ提げて1992(平成4)年、背番号を「00」に替えて一軍に定着する戦力となった。この年から亀山は「00」を6年間背負っている。 新庄の項でも書いたが、優勝争いのなかですさまじい「新亀フィーバー」が巻き起こり、亀山は常に全力プレーでファンを魅了し、とくにヘッドスライディングは代名詞にまでなった。 ![]() ところが1993(平成5)年6月11日、果敢なスライディングキャッチが裏目に出て右肩を脱臼し、ほぼ1年を棒に振る。 1994(平成6)年は、新外国人選手ロブ・ディアーの加入でシーズン当初は控えに回っているが、ディアーの不振からスタメンに復帰して105試合に出場、打率.284、9本塁打を記録している。 1995(平成7)年4月16日には打球を追ってグレン・デービスと激突して腰椎骨折の重傷を負い、これでほぼ選手生命を絶たれたと言っていいだろう。 1996(平成8)年は一軍公式戦の出場はなく、1997(平成9)年もわずか4試合に出ただけで10月に戦力外となった。年明けに近鉄のテストを受けるが不合格となり現役を引退した。
米崎薫臣 内野手 アマチュア時代から遊撃手として守備に定評があり、日本生命在籍中に1987(昭和62)年のワールドカップや1988(昭和63)年のソウル五輪の代表に選ばれた実績がある。 1989(平成元)年、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団。1年目に32試合、2年目は70試合に出場したが、攻守ともにプロとしての確実性に欠けており、3年目以降は一桁の出場しかできなかった。 1998(平成9)年、背番号を引退した亀山の着けていた「00」に替えて心機一転を目指したが、一軍登録されることはなく、この年限りで引退している。
まとめ こうしてみても「00」が何か特別に意味のある背番号って感じはしないわね ジョーンズ選手は まあバース選手に替わる助っ人として期待を込めて・・・といってもなぜ「00」じゃなければいけなかったのかな 「44」を引き継ぐことだってありだったとおもうけどそうしなかったのよね 亀山選手も「67」から出世して一桁の番号ではなく「00」 理由は定かじゃないわね 米崎さんに至っては何か悪あがきのゲン担ぎみたいなものかしら? 米崎さん自体を記憶してるファンも少ないとおもうよ 現在息子さんが近大2年でドラフト候補に挙がりつつあるみたいね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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