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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号00(その2) 背番号00の2回目です 1回目のときに異質な番号と書いたんだけど その後に着けた選手も長く主力として活躍した人はいないのね この先どう言う扱われ方をしていく番号なのかわからないし ひょっとするとどこかで無くなってしまうかもしれないね この番号をもらうだけで「?」ってなっちゃうし 正直あまりいい番号とはおもえない
城友博 外野手 城は千葉県習志野高校3年時に夏の選手権で甲子園の土を踏み、ベスト8まで進出。俊足巧打の外野手として評価されてドラフト6位でヤクルトに入団している。 ヤクルトでは11年間を過ごすが、一軍の試合に最も多く出たのは1993(平成5)年の96試合。ほとんど外野の控えや代走などでレギュラーと呼べる存在にはなれなかった。 1997(平成9)年には、停車中にトラックに追突されて椎間板を損傷したことが選手生命の危機となる。翌1998(平成10)年は4試合の出場しかなく、オフに自由契約となってしまった。 移籍後の1999(平成11)年は5試合わずか4打席の出場で0安打1犠打2三振。ふたたび自由契約となって現役を退いた。
平尾博司 内野手(再掲) 平尾は1994(平成6)年ドラフト2位でタイガース入団 すでに背番号2で紹介しているが再掲する 大宮東高校時代には通算68本塁打の記録を残した超高校級スラッガーとして期待されて入団したが、プロでは長打力を発揮することができなかった。 入団2年目の1996(平成8)年の後半には、和田に代わってセカンドを68試合守るなどポジションをとるかに見えたが、1997(平成9)年にドラフト1位で今岡誠が入団してくると控えの守備要員に追いやられてしまう。 2001(平成13)年のシーズン途中で、谷中真二との交換により西武ライオンズへ移籍する。西武移籍後は内野全ポジションが守れるバイプレーヤーとしてチームを支え、12年間在籍したのち2012年に現役引退した。
田中秀太 内野手 熊本工業高校時代には高校生として初の日本代表入りし国際大会に出ている。1995(平成7)年にドラフト3位でタイガース入団。最初の背番号は「60」を選んだ。 プロ入り後4年間は、ほぼファーム暮らしだったが、1999(平成11)年に昇格すると116試合に出場、15盗塁や22犠打など持ち味を見せるようになった。 2000(平成12)年には113試合で355打席に立ち、77安打17打点1本塁打で.251というキャリアハイの成績を残す。 2001(平成13)年、野村監督が提唱した「F1セブン」に漏れ、監督が「入れ忘れた」といって「F1エイト」と訂正される珍事もあった。 しかし、このころから守備交代要員の扱いの色が濃くなり、スタメン出場は減っていく。 2004(平成16)年に1安打したのが最後の安打で、2005(平成17)年から4年間0安打が続く。2007(平成19)年には田中のエラーで失点したことに激高した下柳が「やってらんねえっ」とグラブを投げつける「秀太事件」を起こすなど守備面でも信頼を失った。
まとめ 今回の3人を見る限りでは 背番号「00」は「心機一転」のようなイメージで与えられる番号になってきたようね ヤクルトを首になってやってきた城さん プロ入り後伸び悩んでいた平尾さん、それと同じような田中さん 結局ものになった人はいないわよね 「00」そのもののイメージが悪い気がするのよ なにか「落ち目の人」や「伸びない人」に淡い期待で着ける番号ってねえ・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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