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カテゴリ:正岡子規
子規の門人のうち、俳人よりも歌人の方がお金を持っていて、子規は歌人からもらった小遣いを、俳人たちに振る舞うことがありました。 河東碧梧桐の『子規を語る』には「鳴雪をはじめ、われわれ仲間は、どれも貧乏書生で、今日を食うに追われていた。伊藤左千夫、岡麓などいう歌よみ仲間が出来てから、俳人とは違って、財産もあり、商売も大きかったので、月々いくらかの金を小遣いによこすことになった。病床の上へ、木綿の財布をつるして、その小遣いをながめでは楽しんでいたこともあった。われわれが行くと、きょうは僕の小遣いでおごるから、何でも好きなものを註文おしよなどうれしそうにいうのだった。そんなに余計な小遣銭を持つことが楽しみなのか、と驚きもし、何やら涙ぐましくもあった。ちょうどそこへ、よかよか飴屋が、鉦太鼓ではやして来たのが裏戸近くにきこえた。早速、財布から何ほどかを出して、大急ぎで買わせにやった。そして、アアいう振売りものは、滅多にこういう奥へははいって来ない。何だかのびやかで、きいてる気持のいいものだ、奨励のために買ってやると、また来てくれるけれな、と言って、奨励のために串ざしの飴もたべた」と書いています。 ここに登場する「よかよか飴」とは、提灯などを立てた盤台を頭に載せ、歌や踊りを披露しながら飴を売り歩く行商人です。『東京風俗志』「売声と行商」には「往昔より子供騙しの菓子売ほどさまざまにおどけたる扮装(いでたち)をなし来れるはな狩るべし。古びたる高帽子を戴き、古洋服の色あせたるを着て、つけ鬚などおかしくしたる男の、太鼓を腹につけて『亜細亜のパン、欧羅巴のパン、パンパンパン』などうちはやしつつ、麺麭菓子、砂糖豆などを売り来れるあり。また『よかよか飴』とて飴桶頭に戴ける男の、太鼓うちたたきて来るに、背後に付添う婦の三味線弾き鳴らしておかしくうちはやせば、男の歌うて『よかよか飴屋さんにゃ、誰がなるよ、日本一の道楽者よ、そのまたおかかにゃ誰がなるよ、日本一のお転婆が』。かく謡いつ、踊りつして子供相手に飴、おこしなどを売るあり。これを恥じずや、かく明からさまに謡うさま、また肝潰るるばかりにあきれられぬ」とあります。 明治の文芸に「よかよか飴」は、よく登場します。中勘助の『銀の匙』には「よかよか飴屋もきた。真鍮の箍をたくさんはめた盥みたいなもののまわりに日の丸や小旗がぐるりとたって、旗竿のさきに鴛鴦の形をした紅白の飴がついている。鯉の滝のぼりの浴衣を着た飴屋の男が、うどどんどん、と太鼓をたたきながら肩と腰とでゆらりと調子をとってくるあとからきたあねさんかぶりをした女がじゃんじゃかじゃんじゃか三味線をひいてくる」とあり、樋口一葉は『たけくらべ』で、「萬年町山伏町、新谷町あたりを塒(ねぐら)にして、一能一術これも芸人の名はのがれぬ、よかよか飴や輕業師、人形つかい大神樂、住吉おどりに角兵衞獅子、おもいおもいの扮粧(いでたち)して、縮緬透綾の伊達もあれば、薩摩がすりの洗い着に黒襦子の幅狹帯、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろもあれば、一人淋しき痩せ老爺の破れ三味線かかへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷させて、あれは紀の国おどらするも見ゆ、お顧客は廓内に居つづけ客のなぐさみ、女郎の憂さ晴らし、彼処に入る身の生涯やめられぬ得分ありと知られて、來るも來るもここらの町に細かしき貰いを心に止めず、裾に海草のいかがわしき乞食さえ門には立たず行過るぞかし」と、大道芸人の一つに「よかよか飴」を入れています。 売っていた飴は、「ぎょうせん」と呼ばれる澱粉飴または麦芽糖飴で、後には砂糖を煮詰めた砂糖飴もあったようです。
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最終更新日
2018.08.09 00:10:10
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