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カテゴリ:正岡子規
寒月や人去るあとの能舞薹(明治25) 誰が謡ふ旅の夜長のつれづれ(明治27) 謡ヲ談シ俳句ヲ談ス新茶哉(明治33) 薪能京より叔父のまかりけり(明治34) 謡初謡ひをさめて餘興かな(明治35) 梅いけて謡はじめの儀式かな(明治35) 明治34年9月25日、子規はチキンローフのことを『仰臥漫録』に書き、ついでにその箱の絵も描いています。 このチキンローフは缶詰で、池内(いけのうち)氏から贈られたと書いています。子規の感想は「鶏肉を敲きて味噌の如くしたるものなり」というもので、缶詰の入っていた箱に興味を示した子規は、その絵柄を絵にしたためました。そして、その箱は歯茎から出る膿を取るための脱脂綿入れにしています。 ローフとは、オーブンで焼かれた長いパン型のことで、古くからヨーロッパの過程で作られていました。ミートローフにはぎゅうが用いられることが多いのですが、子規の元に届いたのは鶏肉のローフでした。ローフは、ひき肉に玉ねぎなどの野菜をみじん切りにして混ぜ、つなぎと塩胡椒、ナツメグなどで味を整え、専用の型で焼き上げます。缶詰に入っていたとありますから、コンビーフの缶を長くしたようなものが入っていたのでしょうか。 池内家は高浜虚子の生家で、五男として生まれた虚子は、9歳の時に祖母の実家の高浜家を継いだのでした。兄には長男の政忠、二男の信嘉、三男の政夫、四男の房之助(夭折)がいましたが、チキンローフを届けたのは信嘉かもしれません。 信嘉は、幼い頃から能楽の指導を受けました。高浜虚子の実父・池内信夫は、藩能の地頭を務めていて、たくさんの謡本を書き残していますので、父の薫陶を受けて育った信嘉は、筋金入りの能フリークでした。明治4年5月24日には、旧藩主へ献能を行ったこともあり、松山藩の能楽が行われた東雲神社の演能を手助けし、松山能楽会を運営してきたのです。 信嘉は、子規の没年に上京して、能楽館を設立して「能楽」を発行します。のちには東京音楽学校の能楽囃子科教授となり、能楽の再建に尽力した人物です。 松山藩では、能楽が盛んでした。幕府が観世流を筆頭としたので、松山藩はシテには喜多流を採りました。子規の叔父・藤野漸(子規が上京した折に下宿した。藤野古白の父)は虚子の父から下掛宝生流を習い、免許皆伝を受けています。また、松山藩士は、能はたしなみの一つで、年に数回、神社で能を楽しむことができました。漱石と子規は、愚陀仏庵時代にたまたま松山で興行していた照葉狂言を観ています。 明治33年4月9日には謡曲会が子規庵で行われ「松風や謡半ばや春の雨」が詠まれています。翌月の16日にも謡曲会が行われていました。 このチキンローフを贈ったのが信嘉だとしたら、伝統を守りつつ、ハイカラなものに興味があったということでしょうか。 九月廿五日晴 朝飯 粥三わん 佃煮 なら漬 牛乳ココア入 菓子パン小二 午飯 粥四わん かじきのさしみ みそ汁実は茄子 なら漬 あみ佃煮 梨一つ 餅菓子二つ 間食 菓子パン 塩煎餅 餅菓子一つ おはぎ半個 牛乳五勺ココア入 た 鰌鍋 若和布二はい酢 馬鈴薯 胡桃 なら漬 あみ佃煮 粥三わん 葡萄一ふさ 高浜より小包にて曲物一個送り来る。小蝦(えび)の佃煮也。前日あみの佃煮この辺になきこと虚子に話したる故也。 午後三人集つて菓子をくう。 南品川村上某より朝鮮の草履というものを贈り来る。 これは観世捻の如きもの。ここは日本の草履の如く編みたれど原料不明。 天津の肋骨より来たりしハガキの半分。 これ前日池内氏より贈られたるかん詰の外皮の紙製の側面也(鶏肉を敲きて味噌の如くしたるものなり CHICKEN LOAF) この紙の箱に今は一寸くらいの脱脂綿の小片をたくさん入れあり。これは毎日歯ぐきの膿を押し出してはこの綿のきれで拭いとる也。 鼻毛を摘む。 庭の棚に夕顔三つ瓢一つ干瓢三つ。それより少しもふえぬにへちまばかりはいくらでも増える。今ちょっとみたところで大小十三程あり。 今宵珍しく夕顔の花一つ咲く。ヘチマの花ももはや二つ三つ見ゆるのみとなれり。 ひぐらしの声は疾くより聞かず。ツクツクボウシはこの頃聞こえずなりぬ。 本膳の御馳走食うてみたし。 夕方梟御院殿の方に鳴く。 ガチャガチャ庭前にてやかましく鳴く。この虫秋の初めは上野の崖の下と思うあたりにて騒がしく鳴き、その後次第次第に近より来ること毎年同じこと也。(仰臥漫録)
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最終更新日
2018.08.20 00:10:09
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