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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.08.18
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カテゴリ:正岡子規
   狂ひ馬花見の人を散らしけり(狂言止動方角・明治28)
   蝋燭に すさまじき夜の 嵐哉(能楽鉄輪・明治28)
   剛力になりおほせたる若葉哉(能楽安宅・明治28)
   三人のかたはよりけり秋の暮(狂言三人片輪・明治28)
   蜘殺すあとの淋しき夜寒哉(能楽土蜘・明治28)
 
 明治28年10月6日、漱石の愚陀仏庵に寄寓した子規は、道後鷺谷〜松枝町〜宝厳寺〜大街道と巡る4回目の松山吟行に出ました。
『散策集』では、「帰途大街道の芝居小屋(新栄座)の前に立ちどまりて、漱石てには狂言見んという。立ちよれば今箙(えびら)の半ば頃なり。戯れに一句ずつを題す」と記して「紅梅のちりちりに敵逃にけり」「長き夜や夢にひろひし二貫文(狂言磁石)」などの句をあげ、次の句でこの日の紀行を終わりにしています。これは「照葉狂言」を詠んだ句です。
 
   小さくといへる役者の女ながらも天晴腕前なりけるに
   男郎花は男にばけし女哉
 
『守貞漫稿』には「照葉狂言」を「嘉永の比、大坂の蕩子ら四、五輩、相議りて始めてこれを行う。その行は猿楽家の間の狂言といえるものを大体とし、衣服にも素袍・上下(かみしも)等を用い、また狂言師の大筋織の服、すなはち古の熨斗目なり、これを着す。俳優のさまもこれに倣い、言語もこれに擬す。しかして往々当世の踊りおよび芝居狂言、または俄狂言に似たることをも交え行う。安政に至り江戸に下り、諸所の寄せ席へ銭を募り、これを行いて群集あり。 追考。『てりは』、てには、俄狂言の訛略といえり。天爾波(てには)ということ、和歌にあることなり」と記されています。
 
 松山で「照葉狂言」の興行が行われたのは、大街道の「新栄座」という芝居小屋でした。大街道の入り口付近といいますから、現在のファーストというパチンコ屋さんの辺りだろうと思います。
 戦前の松山をたどった池田洋三の『わすれかけの街』には「新栄座のコケラ落としは明治二十二年。昭和三十二年に閉館するまで国伎座とともに松山の映画、演劇の殿堂だった。『オタフクコイコイ』と芝居がある日は櫓から太鼓が威勢よく鳴り響き、人力車に役者をのせての街回り、劇場周辺にはノボリを立てて景気をつけた。大正の末に映画館になるまでは関西の中堅どころの劇団がやって来た。映画に切り替えると、棧敷を取り払って五人掛けのイスにした」とあります。
 

 
「照葉狂言」が道後温泉の資金計画に一役買ったことがあります。松山市発行の『道後温泉』に、その内容が掲載されていました。
 
 道後湿泉が本館を建築するにあたり、五十二銀行(伊予銀行の前身)からの借入金返済の期限が迫り、一面霊の湯の建築資金も調達せねばならず、伊佐庭町長は銀行との折衝に苦慮していた。たまたま泉祐三郎一座が松山に来演し、紙屋町の菓子舗で能楽家の崎山龍太郎方に滞在していた。伊佐庭はふと妙計を思いつき、鮒屋旅館(当時は温泉本館養生湯と道路を隔てた南側の冠山下、いまの温泉センター登り口付近にあった)に能舞台の設けがあったのを幸い、ここに祐三郎一座を迎えて能狂言を催し、銀行の加藤彰頭取をはじめ重役やその家族、一般有志らを招待して見物させた。
 番組は能楽山姥と望月の二番を上演、松山の囃子方東新吾がとくに大鼓をつとめた。作は当時懐妊九ヵ月といわれたがシテを演じてそのあざやかな力強い演技に、あれが臨月近い身重かと一同驚嘆賞讃措かなかったという。ついで祐三郎が狂言三十日囃子を演じた。これは借金に苦るしむ主人公が大晦日になって債鬼が押しかけるので苦肉の策を案じ得意の囃子を演じて追払うもので、虚子も三十日囃子は祐三郎が「最も得意とする狂言」と書いているだしものだけに、その巧みさ、おもしろさ、おかしさに、やんやの大喝釆であった。妙技もさることながら伊佐庭町長がこの狂言に暗して苦衷を訴えていることが加藤頭取はじめ重役たちにも酌みとられ「この能狂言を見せられては、むげに催促もできまい」と、談笑のうちに金融が認められ、ついに霊の湯改築にも着手することができるようになったといわれる。松山ならではの風流なエピソードである。照葉狂言は泉夫妻の死去により、いまは全く滅亡した。(一と役買った「照葉」狂言)
 
 漱石は、上野義方の離れを愚陀仏庵と称しましたが、上野義方の親戚・久保より江は『嫁ぬすみ』の「夏目先生のおもいで」に「照葉狂言の泉助三郎(=祐三郎)一座は鏡花の「照葉狂言」と一緒になって私の記憶をいつまでも鮮かなままでおく。助三郎の妻の淋しいおもざし、小房、薫、松山で生れた松江などとりどりになつかしい。そして一度はあの遠い古町の小屋まで連れて行っていただいたのに、折あしく休場で空しく堀端を引返した。その時先生の右手には私が縋(すが)っていたが、左には中学校の校長だった横地地理学士の上のお嬢さんが手をひかれていらっしった。私より一つ二つ年下であったろう、かわいいかたであった」と当時を振り返っています。
 
 子規の門人・高浜虚子は、『子規の句解釈』で「照葉狂言というものが明治の始め頃に行われておったということを聞いておる。それは男女合同の一座であって、能の中に俗曲を加えて演奏するもので、はじめは厳粛な能の形式で進行していって途中から急にくだけて三味線が入り、能衣裳を附けたままで踊りになり、またあとでは能の形式に立戻るといったものであった。……その一行は加賀の出身であったように聞いたと思う。松山地方も能楽が相当に旺んな土地であったので、よくこの照葉狂言の一座も松山に来ておったものと思う。それが後になって泉祐三郎・小さくという夫婦の一座が今様能狂言という名前に改めて照葉狂言の衣鉢を嗣いで松山によく興行に来たものである。祐三郎というのは百芸に堪能で、能のシテはもとよりのこと、脇もやれば狂言もやり、太鼓も打てば笛も吹く、それに踊りも踊るといったようなわけで、三十日囃子という狂言などは最も得意としてやっておった。小さくというのは宝生流の謡を立派に謡い、シテの型も立派であった。大概シテ方に廻っておったが踊もまた立派であった」と解説しています。また、『俳諧一口噺』の「照葉狂言」で、照葉狂言一座との回想を著しています。
 
 照葉狂言という言葉は鏡花の小説によって今の青年の記憶にも止まっているであろう。維新前、堀井千助というものの一座があって、余が故国松山などへもしばしば来たことがあったそうだ。これが照葉狂言の創始者であった。この千助は後に惣右衛門と改名してその息子が千助となった。その千助の弟子に泉重三郎というのがあって、その妻の小もと、妾の小里という二人の女とともに一座を組織して諧国を打ってまわった。その小もと、小里の二人は余も十歳前後に一二度見たことがある。現在東京にいる泉祐三郎は重三郎の弟子で、その妻のお作は小里の弟子である。初代二代の千助時代は真面目な能であって、唯いわゆるお能役者の外に、興行物として立っていたため、揚幕を上に揚げず、横に引いた位の差異に過ぎなかったそうなが、重三郎時代から女交りとなって三味線を入れ、踊をつぎ足す、現在の照葉狂言となった。余が中学校にいる時分、今の祐三郎一座はしばしば国へ来た。当時は脇師から囃子方、地謡に至るまで取揃えた大一座であって、中には立派に謡もうたえ鼓もうてるものがあった。主として加賀あたりの士族の果てだと聞いていた。しかし仕手もしくは連れとして登場するものは、お作を始めその娘及びその弟子の女たちで、祐三郎は主として狂言をやっていた。芝居などは見るもので無いという古風な家庭でも、この照葉狂言だけは見ることを許されるという風で、落ぶれながらもなお士族の面影を存していた時代は、堅くるしい見物人も少くはなかった。しかし余が中学校を出る時分からは見物人は一変して町家の人々や学校の生徒などが多分を占めていた。
 余は京都に行ってからも、しばしばこの一座を見た。四條の南座て楽屋に這入って、国許の某から依頼された用事を伝えるため、長火鉢を隔ててお作と話したこともあった。西陣の岩上座にいる祐三郎と一緒に、金閣寺の長老を雪中に訪うたこともあった。折柄、長老は不在であったが、方丈で餅とやきながら中で皺の多い老僧が「坊ンはどこにいなはる」と余の帽子を見ながら「吉田の学校か、そらえらいこっちゃ、祐三郎と一緒じゃのうても時々一人て遊びにお出て、サアあんもが燒けたおたべ」と親切に余を遇してくれたこともなお記憶に残っている。も一つ当時の白紙のような余の心に一点の艶味を薄紅の如く点じたことがしかと記憶に留っている。それはこの一座にお千代という美人がおった。まだ十三四の小娘であったが他の多くの娘たちの中に際立って美しかった、ある時楽屋に遊びに行っておった時、便所に行こうとしたらたまたま便所に火が無かった。お作は「千代ちゃんあかりを見せてお上げ」と衣裳を半分つけかけていたお千代に命じた。お千代は「ハイ」といって手燭を取って余を便所に導いてくれた。見ると何であったかまだ白い下着ばかりを着けていて、腰帯も締めずにいたのを片手で仮にからげて、片手に手燭を持って、先きに立った姿が非常に艶であった。ことにその無邪気なキラキラ光る眼で「そこがあぶのうおす」と、一段縁の下っている処を降りかけた余の足もとをはしこく見かえった時は、手燭の光りをまともに受けて、その光りが白い衣に照え栄えて、その顔の薄く紅を潮したのに反映して、何ともいわれぬ美しさであった。京都を去ってからほとんど十五年間、余は照葉を見なかった。お作と娘は一度余の宅ヘ来たこともあったが、ただ雑談して帰ったばかりであった。今度はからずも新年俳句会に俳書堂の寄附で久々に照葉狂言を見た。祐三郎は昔の如く童顔ではあるが鬢に白い霜を敷いている。お作の顔にも皺が殖えた。長女のお房というのは知っていたが、薫、松代という次女三女の芸はこの日初めて見た。松代というのは松山滞在中に生れたのでこう名づけたのだということもこの日初めて聞いた。今は昔の如く大一座ではない。ただ親子五人で座敷を勤めているそうな。お作は型も謡も旧によって旨いものだ。ヘッポコのお能役者よりも遥かに旨い。
 お千代はどうしていると聞いたら、今は人の奥様で子供が二人あるというた。
   餅焼いて今も春や待つ金閣寺(高浜虚子 俳諧一口噺 照葉狂言)





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最終更新日  2019.08.19 07:03:50
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