尾畠春夫さんの今
NHKの新プロジェクトXで能登半島地震の炊き出しボランティアを観て、そういえばスーパーボランティアの尾畠春夫さんはどうしていらっしゃるかと検索してみました。以前、ネットゲリラさんがとり上げていたのを思い出します。現在85歳で、今でも海岸のペットボトルの回収等活動されているそうです。子供の頃母親を亡くし奉公に出され、苦労して魚屋さんを開業され、65歳ですぱっとやめてボランティアを始めたそうです。山中で行方不明となった男児を発見して一躍有名になりましたが、体が丈夫なのは若いころとび職を経験されたのもあるようです。自分も同じ65歳。尾畠さんみたいに思いきる勇気はありませんが、何かに挑戦してみたくなります。■参考リンクWikipedia:尾畠春夫尾畠 春夫(おばた はるお、1939年〈昭和14年〉10月12日[3] - )は、日本のボランティア活動家[4][5]、元鮮魚商。大分県速見郡日出町在住。身長161cm、体重57kg[2][6]。1993年、登山道整備のボランティア活動を始めるが、経営していた鮮魚店の閉店後に活動を本格化させる[7][8]。多くのボランティア活動の実績により数々の表彰を受け、後に緑綬褒章が授与された[9]。2018年の行方不明児発見の手柄により、「スーパーボランティア」として一躍時の人となった。尾畠 春夫(おばた はるお、1939年〈昭和14年〉10月12日[3] - )は、日本のボランティア活動家[4][5]、元鮮魚商。大分県速見郡日出町在住。身長161cm、体重57kg[2][6]。1993年、登山道整備のボランティア活動を始めるが、経営していた鮮魚店の閉店後に活動を本格化させる[7][8]。多くのボランティア活動の実績により数々の表彰を受け、後に緑綬褒章が授与された[9]。2018年の行方不明児発見の手柄により、「スーパーボランティア」として一躍時の人となった。人物・来歴幼少期大分県東国東郡安岐町(現:国東市安岐町)に生まれ、幼少時に現在の杵築市に引っ越し育つ[10][2]。父は下駄職人であったが、履き物がゴム製品に変わる頃で、商売は順調ではなかった[10][2]。母は専業主婦であったが、尾畠が小学校5年生時の41歳で他界[10]。母の死は尾畠に大きく影響する[10]。酒好きであった父は、妻の死後、何人もの子供を抱え、下駄は売れず厳しい現実から逃れるためか、ヤケ酒に走る[10]。7兄弟の4番目の尾畠は、「大飯喰らいだから」という理由で一人だけ近所の農家に小学5年生で奉公に出される[10]。この時、尾畠は「世の中なるようにしかならない。やるだけやってやろう」と心を入れ替え、奉公先の主人や家族を親だと思い、何でも言うことを聞くという生活に入る[10]。その全ては「飯を喰うため」だったが、奉公の経験が宝になっていると感じるに至り、恨みの対象だった父は、いつしか感謝の対象に変わる[10]。中学校へは4ヵ月しか通えなかった[11][2]。中学卒業から独立まで1955年(昭和30年)に中学を卒業するとすぐに姉の紹介で別府の鮮魚店の小僧となる[1][10][2]。姉は、働きたいという尾畠に対し「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」と言った[10]。別府駅に向かう際、父から青い10円札を3枚持たされ、珍しく大盤振る舞いだなと喜んだものの、その30円は片道切符代に過ぎないことを知り、帰るという選択肢がないと知る[10]。鮮魚店ではあらの煮つけが出たが、毎日が芋とカボチャの日々だった尾畠は、こんなうまいものはないと衝撃を受ける[10]。別府の鮮魚店で3年間修業の後、下関市の鮮魚店で3年間フグの勉強をし免許を取得[1][10]。その後、関西で勉強したいと考え、神戸市新開地の鮮魚店で関西流の魚のさばき方やコミュニケーション術を4年間学ぶ[1][10]。10年の修業後独立するつもりだったが、給料が安く貯金はゼロに近かった[10]。開業資金や結婚資金を得るために上京し、大田区大森の鳶・土木の会社に「俺には夢があります。3年間どんな仕事でもするので働かせてください」と頼み込み就職する[1][10]。この時の鳶と土木工事の経験が、現在のボランティア活動に役立っているという[10][2]。会社からは、残って頭になれと熱心に誘われたが、1968年(昭和43年)に大分に戻り、4月に結婚[10]。同年11月、別府市内に鮮魚店「魚春」を開業[1][11][2]。地元で人気店となる[11][10][2]。登山とボランティア40歳から趣味で登山を始め[7]、45歳の時に北アルプス55山を単独縦走[2]。1993年からは、由布岳登山道の整備のボランティアを開始[7]。65歳の時に鮮魚店を閉店[11]。これは年金がもらえる年になったからで、当初からの予定であり、仕事を辞めた翌日からはボランティアをすると決めていた。これは、2人の子供の大学までの学費を魚を買ってくれた客から得ていたため、社会への恩返しをしたいと考えたためである[1]。3,300kmを3か月で踏破する日本縦断に挑戦し、挑戦の中で人との出会いの大切さを改めて感じる[3]。この後、本格的にボランティア活動を開始し、以降はボランティア活動に専念[11][4]。災害ボランティア新潟県中越地震を皮切りに、東日本大震災・熊本地震・西日本豪雨などの多くの被災地で活動を継続[4][12]。2011年3月、東日本大震災被災地の宮城県本吉郡南三陸町では、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として約500日間活動[4]。この際、好きだった酒を止める[4]。同町での活動においてボランティア仲間の精神的支柱と評され[13]、若いボランティアから「師匠」と慕われることもあった[14][11]。尾畠がいるだけで現場が活気づき、「神」のようだと評されることもあった[11]。尾畠の自宅には来客が絶えず、人生相談を持ちかける者もいるという[11]。スーパーボランティア同年11月7日には尾畠を指す言葉として有名になった「スーパーボランティア」が「2018 ユーキャン新語・流行語大賞」にノミネートされた[29]。その頃、大分県でボランティア活動をしていた尾畠は朝日新聞の取材に対し「当たり前のことをしていただけで、『スーパーボランティア』なんてぜんぜん思っていません」と語った[29][30]。同年12月3日に東京都内で「新語・流行語大賞」が発表され「スーパーボランティア」はトップテンの1つに選出されたが、尾畠は受賞を辞退し表彰式にも出席しなかった[30][31]。表舞台に立とうとせずボランティア活動に注力する尾畠に対し、表彰式の司会者は「頭が下がる思いです」と賛辞を贈っている[32]。発言や生き方についてボランティア活動に対する考え方東日本大震災のボランティア時に、それまでは浴びるほど飲んでいた酒をきっぱりやめる。その理由は、「避難所のベイサイドアリーナには1,800人もの避難者がおり、身動きもできないほどの大変な混雑ぶりであるにもかかわらず、誰も文句を言う者がない。同じ日本人でありながらこんな思いをしている人がいるんだ、と思った。酒なんか喰らっている場合ではない」と思ったため。その後、2018年8月まで一滴も飲んでいないが、断酒したわけではなく、中断しているだけだという。東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれた時、解禁すると述べている[4]。軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側からは力を借りないことが信条。「自己完結するのが真のボランティアだ」という[39]ボランティア中の主食はパックご飯とインスタントラーメン。パックご飯は温めるとガス代がかかるのでそのまま食べる。寝泊まりするのは軽ワゴン車の後部座席で、被災地のどんな環境でも寝られるようにするため、普段からゴザの上で寝る習慣がある。ボランティアに使用する軽自動車は2018年8月現在で13年間使っており、走行距離は約20万km。故障したことは一度もない。ボランティア活動中は風呂もシャワーも浴びず、帰宅後温泉に3-4時間入る[4]。車内での寝泊まりは被災地の人に迷惑をかけないようという理由もあり、その行動を見てボランティア仲間から「謙虚な人」だと評されたこともある[3]。「ボランティア時には言動全てに気をつける必要がある。『暑い』とは絶対に言わない。自分が被災者であったならば、どう思うのか。ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけない。赤い服を着用し背中に大きく名を書くのは、被災している人は身元が分かる方が安心するから。黙っていると怖いと思われるので、よく話すこと。全ては安心感をもってもらうためである」と語っている[4]。「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれでいいと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」[40]「表彰を受けたからといって、必要以上に頑張ろうとは思わない。今まで通り、ボランティアを続けていくだけ」(2018年9月3日、日出町から功労者として表彰された際のコメント)[41]「いつかは沖縄で遺骨収集したい。ガマと呼ばれる沖縄の自然の洞窟には相当な数の兵隊の骨が残っているが、その捜索がしたい。2018年に実行する予定で、道具の準備もしていたが、災害が続発して断念した。2019年春には実行したい」[4]。生き方についてボランティアを本格的に始めたのは、大分県別府市にあった店を閉めた65歳のころ。「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しがしたい」と思ったからと、全国各地で車中泊しながら、ボランティア活動を行ってきた[42][43]。「人に、世の中に、恩返ししたい」が口癖。 広島県廿日市市を旅している時に、通りすがりの夫婦から「旅の足しに」と千円を受け取ったことが、2018年に広島入りする動機の一つになった[44]。プレジデント編集部の取材に対し「正直言えば、私は私が怖いんです。放っておくと悪いことをするのではないかという恐怖です。毎日自分を振り返っては、自分自身が悪いことをしたととにかく叱りつけている。これからも私は常にボランティアをして、感謝を続けるしかないんです」と答えている[45]。活動費は自分の月約5万5000円の年金から捻出。貯金はゼロに等しい。尾畠は一方で、「商売人ですからカネには執着している。それは今も同じ」だが「無いものは追っても仕方ない。私は逃げるものは追いかけない主義です。その時の状況に応じた生活をしているだけ」と述べている[4]。78歳時点での将来の夢は「夜間の高校に行って勉強したい」[46]。2018年現在、健康保険証は11年使用していない。大病は40歳の頃の腸捻転だけ。自宅にいる時は毎日8kmほどジョギングをする[4]。健康の秘訣を体にいいものを食べることといい、タンポポ、オオバコ、ドクダミ、ヨモギなどの野草を集め、茹でて酢醤油で食べている。桑の葉が特にうまいという。この食生活は登山を始めた40歳の頃から続けているが、家族には勧めないし、家族で食べているのは尾畠だけだという[4]。「カミさんは、いまは旅に出ている。一人旅です。「自由にしたい」って。5年前に出かけて…、まだ帰ってない」と語った。今の自宅は妻と老後をゆっくり過ごすために買ったもので、妻も鍵は持っている。いつでも帰れる状態にしている[4]。息子は公務員で市役所に勤めており、「魚屋を継いだほうがいいかな」と聞かれたことがあるが、そのときは「お前には継がせないよ」と怒った。自分の人生は自分で歩むべき。私は子供に対してどうこうしろと言ったことはない。国民の義務さえ果たしていれば何をしてもいい[4]。携帯電話もカーナビも使ったことはない[4]。かつてはヘビースモーカーでピースを2箱吸っていたが、当時高校生の孫に、「65歳を過ぎると体力が急激に落ちるから絶対にやめろ」と言われ、孫の言うことは天の声だと思い、その場ですべて燃やした[4]。「来る人は拒まず。しかし、マスコミはすぐいなくなるでしょう。私なんて一過性のもの。日本人は熱しやすく冷めやすい。自分のことなどすぐ忘れる。花火では線香花火が好きだが、小さくて長持ちする、そんな生き方がしたい」と発言している[4]。2018年9月23日TBSテレビ『情熱大陸』で、「多分、今現在やってることも、行動言葉諸々のことをウチのお袋はじぃっと、オバタハルオのこと見てくれてると思う。だから、いつか自分が逝った時に、お袋から思いっきり、背中の骨が折れるくらい、胸のあばら骨が折れるくらい抱きしめてもらいたいね」と述べた[47][48]。2018年8月の行方不明者捜索について行方不明になった子供を探していた家族に対し「私が抱きしめて直にお渡しします」と約束していた。そのため、実際に発見した際に山口県警察から子供の引き渡しを要請されたが、「口約束も契約」「言うたことは守る」と拒否、直接家族に対して子供を引き渡している[43]。発見に際しては「人の命より重いものはない。尊い命が助かってよかった」と笑顔でコメントした[43][49]。ボランティアのきっかけ南三陸町でのボランティアのきっかけは、2006年に鮮魚店をやめ、徒歩による日本縦断の旅に出た際に立ち寄った南三陸町歌津で野宿した際、地元の住民から混ぜご飯を分けてもらったことがあり、震災発生後この住民の安否が不明となったため3日がかりで駆け付けたことであった。この住民は無事で、尾畠はその翌日から、この地でボランティア活動を開始した[8]。2024.10.27 16:03NEWSポストセブンスーパーボランティア 尾畠春夫《スーパーボランティアの尾畠さんが能登半島入りも 1日で活動断念した理由》被災地を前に初めて涙した日、明かした「85歳を区切りに引退」発言の真意トレードマークの真っ赤な鉢巻き姿で全国を巡り、被災地支援や海岸のゴミ拾いなどを続けてきた尾畠春夫さん(85)。 尾畠さんの名が広く知れ渡ったのは、2018年8月に山口県周防大島町で行方不明となった2歳児を発見したのがきっかけだ。以来、 “スーパーボランティア”と呼ばれ、2020年に「緑綬褒章」を受章し、“時の人”となった尾畠さんは10月12日で85歳を迎えた。約半年前、NEWSポストセブンの取材に「ボランティア活動は85歳で区切り」と語っていたが、本当に辞めてしまうのだろうか……。 取材班は85歳の誕生日を直前に控えた10月上旬、大分の自宅を訪ねた。そこで本人から語られたのは、ボランティアへの意外な想いだった──。【前後編の前編】「記者さん、実は今夏に石川県の輪島へ行ってきました。本当は地震発生直後の1月に行きたかったが、車が故障していて行けませんでした。車の修理も終わり、20日分の食料などを準備してすぐに向かいました。現地はアスファルトに穴があき、道が酷かった……」(尾畠さん、以下同)以下略。