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書評日記  パペッティア通信

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Jan 14, 2007
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▼   この本も、すてきよ。 「初の新書化!」なんて銘打たれていて、「文庫にはなってるじゃない」と毒づきたくなったけどね。 むろん、21歳の近頃売れっ娘のライターが、ジジェクにインタビューしたものと、まだ日本語訳されていないジジェクの論説をあわせたもの。 所詮、小娘になにができるのさ。 そう言われるリスクを覚悟していたでしょうけど、訳文もなんとか読めるものになっていて、なかなかのものよ。


▼   ともかく、本書の中身をまとめてみるわね。 ジジェクインタビューは3本からなるわ。


▼   「偶然性を理解すること」  これが、ジジェクのヨーロッパの普遍思想として守り抜くべき、キーワードらしいの。 何度も主張されるのは、「国民は国家を怖れるな!!」、規制こそ、本来の姿だ!。 そして、「集合的意志決定」を復活させよ、何なら地球規模のテロルで決定を強制せよ!。 資本主義による悲惨な事故を「流してしまわない」で、見えない過程まで責任をとろう!  体系的な資本主義の悪に立ち向かおう!  かしら。  ロシアの弱さを冷静に指摘するとともに、西ヨーロッパとロシアの提携も唱えているわ。 また南米の「善の枢軸」―――キューバ、ベネズエラ、ボリビアの反米運動も悲観的よね。 あと、ジジェクは、スロベニアでは共産党に干されていたらしいの。 たしかに『厄介なる主体(1)』で書かれていたけれど、彼は薄給だけど完全な自由が与えられているらしいわ。


▼   むろん、2本収録されている彼の時事論説も楽しいわ。 「パリ暴動」に関する議論は、とても刺激的。 あの暴動は、具体的な社会・経済活動を要求をおこなうためのものではない。 「存在の証明」「可視化」を求めての、「完全に無意味」な暴力らしいの。 グローバルな資本主義は、「意味」と「真実」を分断して、「意味を持たない真実」という次元を構成しているわ。 だからかれは、保守派、リベラル派双方の対応を批判するのね。 保守派は、「意味」の次元に資本主義を閉じこめようとするし、リベラル派は「意味」の外にある真実を提起しようとするから。 前者は、文明の衝突の代償が避けられない。 両方とも、より「悪い」ものなの。 


▼   対処策は、問題そのもの転換、イデオロギー的枠組からのシフトよ。 テロリスト原理主義者に欠けているのは、自らの優越性を信じる真の意味の人種差別的思考ではないのか?みたいにね。 エゴイズムに対立する概念は、公共善への精神ではなくて、羨望やルサンチマンによって、自己を犠牲に差し出してまで他者が対象物を手にすることを阻もうとさせる、犠牲的精神ではないのか。 ルサンチマンこそ、自己犠牲をうむ悪なのではないのか。 そして、「公正」な社会によって、「失敗」を制度のせいにできない社会にしてしまうことこそ、ルサンチマンの暴発を引き起こしてしまうのではないか。 ジジェクはそう主張するの。 すべてが選択することができるようになったとき、偽の「自然化」を施された、宗教的・民族的紛争が最適な闘争形態になるわ。 客体の剰余(抽象的普遍性の直接支配)は、主体の剰余(恣意的な思いつき)によって補足されるとするのが、ヘーゲルの真髄。 象徴的な次元において全員を承認するポストモダン的「具体的普遍」では、人種・宗教・性別という、偶然的他者性を絶対的他者性へと高める動きのみが、差異を示す唯一の方法として残されてしまうのではないか。 ジジェクはこういうわ。 彼らフランス青年の絶望的な暴動こそ、過激思想家ではなく、リベラル派の望んだことによってもたらされた、当然の結末ではないか、と。 


▼   「人権概念の変遷」も、なかなかよ。 ある対象の他者性は、自分たちが抑圧してきた無意識のあらわれなの。 選択とはメタ選択にすぎない。 ヨーロッパ社会では、ヴェールを被るイスラムの女性がとれる選択は、着用しないことしかないの。 なぜなら、宗教的信念に基づいて、着用を選択したとしても、それはイスラム共同体を選ぶことではばく、得意な個性の現われであって、一線を越えれば原理主義として非難されるからよ。 自由な主体とは、固有の生活世界から切り離された存在としてしかありえない。 「他者への寛容」も、他者との接近の恐怖のことであって、相手の存在が薄い限りにおいて許容されるにすぎないのではないか。 ポストモダンにおける「人権」とは、「ハラスメント」を受けないこと、近づきすぎることへの「不寛容」を指すのではないか。 また、ゾーエーに関する議論は、白眉に近いわ。 「顔のない回教徒」を絶対的確実性ととらえるレヴィナスの議論は、主体が「怪物性」から目をそむけるための防御としての飼い馴らしではないか、そう批判されているの。 ゾーエとは、ジジェクによれば、具現化された「実体」の両義性であって、悪そのものと重なって対照的なもの同士が衝突する、「不可能な地点」なのよ。 


▼   ジジェクは、「人権とは権力の剰余からの防御」と整理するわ。 その「剰余」は、代表されるものと代表するものの関係からくる構造的不平等性であり、「主権」といっても良いものよ。 かれはアウシュビッツに代表される20世紀の大惨事の説明を3つにわけるの。 ハーバーマスは、啓蒙主義とは解放であり、残虐性を内包していない、とした。 アドルノ、ホルクハイマーは、大惨事を啓蒙主義の到達点にしたわ。 ジジェクは、3つ目のバリバールの議論に組するの。 自由と大惨事の決着は、まだついていない。 主体をも自滅させる大惨事を理論的に解明するとともに、革命の「文明化」する方法を問わなければならない。 権威を政治的基盤に帰することができない、非政治的権力により運営される軍隊、教会、学校、家族は、「暴力」そのものであって、権力は暴力という「剰余」に決定的に依存しているわ。 この<非政治的><政治以前>の隠れた政治プロセスこそ、見極めねばならないもののよ。



追伸1 (その<2>はこちらになる予定。 応援をお願いするわ。
    長すぎて1日では終わらなかったの)


追伸2  なんか遊鬱さんに、こっちの口調の方が分かりやすい、
     と言われたから、やってみたの。 不安ねー。


評価  ★★★☆
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Last updated  Feb 23, 2007 07:15:53 PM
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