カテゴリ:生の欲望の発揮
生活の発見誌の8月号に水谷啓二先生が、「純なる生の欲望」について説明されている。
「純なる生の欲望」とは、他人の影響や社会の刺激などによって新たに作りだされた欲望ではなく、自分の内部から自然に発動してくるところの、純粋で本来的な欲望である。 これについて、森田先生は次のように説明されている。 「我々は自動車が欲しい、美人が獲たい、これは欲望ではあるが、純なるものではない。社会のいろいろの境遇に触れて、初めて起こるものである。・・・しかるに今、われわれの心に自然の発動する純な欲望というものは、文化生活におけるいろいろの誘惑の間に立ち、あるいは矛盾、錯誤の多い思想によっては、なかなか容易にこれを認めることができない。すなわち社会から隔離された孤独の境遇に身を置いてみた時、初めて自分自身から自然に発動して来る欲望というものがわかる。それはあたかも宝石が光に遭ってその麗光を放ち、草木が春に遭ってその力を発揮するようなものである」 欲望といえば、物欲、所有欲、性欲、食欲、睡眠欲、金銭欲、名誉欲、出世欲、支配欲、権力欲、独占欲、自己顕示欲、完全欲、生存欲、安全志向欲、向上欲、発展欲、自己実現欲、承認欲、健康欲、知識欲、集団帰属欲などがすぐに思い浮かぶ。実に多くの欲望がうごめいている。 人間には108の煩悩があるといわれるが、欲望の充足に向かって努力精進していくことが我々に課された宿命かもしれない。欲望が生まれてこないと、生きる意欲は湧いてこなくなる。 問題はその中身である。自分のためだけ、今生きている人間だけのため、自分たちの地域のためだけ、自分の会社のためだけ、自国の国益のためだけの欲望を最大限に追及するようなやり方は問題だと思う。 地球の温暖化、オゾン層の破壊、アマゾン川流域の森林破壊、酸性雨、公害、海洋汚染、核兵器開発、武力増強、国益をかけた経済戦争、資源の奪い合い、食料の奪い合いなどは、欲望が暴走しているとしか思えない。欲望の追及にあたっては、他人、他国、自然環境を窮地に追いやることは抑制しなければならない。一時はよい思いをするかもしれないが、長い目で見ると、その反動は必ずやってくる。 最後には自分たちにいつかは惨禍が及ぶはずである。 だから欲望の追及は、他人との共存共栄、自然循環の中での欲望の範囲に抑えるべきである。 他者や自然を自分たちの過度な欲望充足させるために、自由に支配し、コントロールしようとしてはならないのだ。他人や自然からみれば、大変迷惑なことだ。争いが繰り返されることになる。 つぎに自分の欲望の追及が50年先、100年先の子孫たちに安心と繁栄をもたらすものであるかどうかということも考えて行動する必要がある。例えば、原子力の平和利用は手軽で便利だといっても、一旦原発事故が起これば、その土地には50年も100年も住むことはできなくなる。 放射能は出続けるのである。また使用済み核燃料の処理ができない状態で、原発を再稼働させることは将来に問題を先送りしているのである。子孫たちからしてみるとたまったものではないはずだ。 チェルノブイリや福島の人たちが故郷を追いやられた状況をこのまま風化させてよいのだろうか。 仮に帰れたとしても、そこでできた食べ物や魚を喜んで買ってくれる人はいないのである。 プラスチックごみが海洋に散乱して、魚の消化器にはその破片やビニール袋のようなものが入っているという。今の人間の行っていることが、将来発展持続可能なものであるのか、あるいは閉塞状態に追い込むものなのか。そこに焦点を当てて欲望を制御していくことが必要である。 水谷先生や森田先生は、表面的な欲望だけではなく、自分の内部から自然に発動してくる欲望に焦点をあてていく方法性を説明されている。現代社会では、それに加えて不安と欲望の調和をいかに取り持つのかが人間社会に突き付けられている時代であると思う。一刻の猶予もない時代に入っているのである。 森田で学んだことは、社会に向かって発信していく必要があるのではないかと考えている。 森田先生がもし今の時代に生きておられたら、人間の生き方、教育、子育て、人間関係、社会の在り方、自然との付き合い方などについて提言をされていたに違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.09.09 06:30:07
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