本屋の店頭で『定年バカ』という新書を手にしたのです。
定年のときの記憶も薄れつつある大使であるがが・・・
この本の目次にならんだ数々のバカが気になったので、つい購入したのです。
本は図書館で借りるものとなってしまった大使にとって、新刊本を購入するのは久しぶりのことでおます♪
【定年バカ】
勢古浩爾著、SBクリエイティ、2017年刊
<「BOOK」データベース>より
定年後に続く、20年、30年という人生を思うと、人はいろいろと考えてしまう。生きがいは?健康は?老後資金は?などなど。しかし、多彩な趣味や交友、地域活動などを通じて充実した定年後を送ろう、いや送るべきという「圧」が昨今やたらと強くなってはいないか?無理して「地域デビュー」なんてしないほうが互いの幸せだったりもする。「なにもしない生活」だってアリなのではないか。
<読む前の大使寸評>
この本の目次にならんだ数々のバカが気になったので、つい購入したのです。
本は図書館で借りるものとなってしまった大使にとって、新刊本を購入するのは久しぶりのことでおます♪
rakuten定年バカ
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最終章「第9章 人生を全うするだけ」で吉武輝子の父親の定年を見てみましょう。
p188~191
■夫と妻の地獄
どういうわけか男にとって、定年は昔から大きな出来事と考えられてきたフシがある。昔といっても、いまから30年ほど前の小昔のことだ。吉武輝子の『夫と妻の定年人生学』(1987年、集英社文庫)という本がある。これが出たのが30年前である。『孤舟』や『終った人』といった小説なら、多少おちょくっても問題はないが、この本はそうはいかない。
(中略)
吉武輝子の父親の死(自殺)は、定年が「セカンドライフ」とか「第二の青春」と喧伝される現在では、ちょっと信じられない話である。人は60ともなれば(ならなくても)、自分で自分の身を修めなければならない、とわたしは書いたが、元三菱銀行名古屋支店長氏は、たかが定年ぐらいで、自分の意味と生きる意味を決定的に喪ったのだろうか、たかが定年くらいで、とわたしなどは思うが、人の心はわからない。
通夜の席から、だれそれさんが定年後急死した。別の人はぼけたというような話が、当時24歳だった吉武の耳に聞こえてくる。客のひとりがいう。
「これからは、仕事一筋ではなく、現役時代に、家族とよきかかわりをもったり、地域社会に居場所をつくったり、あるいは人生の楽しみを発見したりしながら働くようにしなければ、先輩諸氏と同様、退職後の末路が悪すぎるってことになるのは目に見えている。それにしても、実に厄介な時代になったものですよ。定年後の人生がやたらと長くなるなんて」
吉武の意見が加味されているようで、会話としてはちょっと説明的で不自然だが、現在いわれているような「地域社会での居場所、家庭とのよき関係、生きがいの発見」がすでにいわれている。というのも、吉武は、定年夫たちの不機嫌は不愛想の理由のひとつをこう考えているからである。男たちは「長年にわたって個人対個人のつき合いの習慣をもつことなくすごしてきてしまった」から、「職場という共通基盤を持たぬ地域の女とどのようにつき合い、なにを話してよいのか、なにひとつ人づき合いの才覚を持ち合わせていない」。
同書には別の定年男の例が書かれている。まあろくでもない男である。大蔵省の高級官僚で、いくつか天下りをして、65歳で定年退職した男である。
妻がちょっとでも出かけると「こんなに長い時間、どこをホッツキ歩いていたのだ」と怒る。妻が、たった2、30分じゃないですか、というとそれが気に食わない。「夫をないがしろにする気か」と湯飲み茶碗を投げつける。
(中略)
吉武は「日本の夫族は、大方は、本来の人格を職業的人格にのっとられてしまっている」と言っている。会社では出世していくにつれて名前で呼ばれなくなり、「課長」「部長」「支店長」と呼ばれるようになる。ところが、定年を迎えて周囲からの服従がなくなったとき、かれらは「男だから偉い」という「一点にしがみつき、せめて、もっとも身近な女である妻だけは支配したいと願わざるをえないのだろう」。
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ウーム アホな定年男とか定年離婚の話なのか・・・
定年離婚して夫から得た資産で暮らせるケースなんて、実際あるのだろうか?
大使の場合は純然たる年金生活者であり、「亭主元気で、留守がいい」を励行しているわけで・・・
一見、アホとしか見えないのだが。