図書館で『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』というシリーズ本を手にしたのです。
ぱらぱらとめくると、ビジュアル本なので全ページ写真入りなのはもちろんであるが・・・
解説もなかなか読ませる内容になっているのです。
【新潮日本文学アルバム宮沢賢治】
全集、新潮社、1984年刊
<「BOOK」データベース>より
ムックにつきデータなし
<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、ビジュアル本なので全ページ写真入りなのはもちろんであるが・・・
解説もなかなか読ませる内容になっているのです。
rakuten新潮日本文学アルバム宮沢賢治
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宮沢賢治の作品には宗教色を帯びたものが見られるが、国柱会への入会あたりを、見てみましょう。
p33~36
<出京・花巻農学校教師時代>
かねて法華経から受けていた深い感動が、日蓮宗への帰依、そして国柱会への積極的参加へと急速に進んだのがこの大正9年であった。10月に正式に国柱会へ入会し、その機関紙等を配布、父の従弟にあたる関徳弥も入信。その関の家に毎週若い人たちを集めて法華経や日蓮の遺文の輪読を試みたり、町内を唱題して歩く寒修業に励んだりするようになる。
輪読会に出席したある女性は、賢治がまるで他人のことなど眼中にないといった調子である時は黙々と、ある時は恐ろしく熱っぽく論じるという風だったと語っている。
入信勧誘は当然家族にも向けられ、とりわけ父親に対しての改宗要求は激しさを増した。この父子の法論、改宗を迫る賢治に対する政次郎の拒否・反論は、家の者たちの顔を青ざめさせるほどのものであり、母イチが間に立ってどんなに心を痛めているかは、親類の間でも同情と心配の種となった。
大正10年1月23日の暮方、店の火鉢で一人考えこんでいた賢治の頭の上の棚から日蓮遺文書が2冊、ばったり背中に落ちた。《さあもう今だ。今夜だ》・・・決意した賢治はただちに家を出て汽車に乗り、翌朝《上野に着いてすぐに国柱会本部へ行きました》と関徳弥あて手紙に書いている。
賢治を迎えた理事高知尾智耀の応対は、突然のこととて幾分素気なかったが、賢治はめげることなく、本郷菊坂町に間借りして、東大赤門前の文信社でガリ版切りなどしながら国柱会館に通い、さまざまな奉仕活動をしたり、上野公園での街頭布教に参加したりした。
(中略)
国柱会では高知尾智耀としばしば会って信仰談を交わすうち、「鋤鍬をとるものはその鋤鍬の上に、ペンをとるものはそのペンのさきに」信仰がにじみ出るようでなければならぬと言われたことから《法華経文学ノ創作》を志すにいたり、猛然と童話の制作に没頭するようになった。
月三千枚書いたとまで言われているが、今日残っている賢治童話のうちの多くがこの時期に本郷菊坂町で第一稿が書かれたものと推測される。8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の電報を受けると、急いでズック張りのトランクを購入、それらの童話原稿をぎっしり詰め込んで帰宅したが、そのトランクの大きさに、花巻駅で出迎えた弟清六はびっくりしたという。
賢治が「童子こさえる代わり書いたのだもや」といって読み聞かせてくれたそれらの童話は、「蜘蛛やなめくじや狸やねずみ、山男や風の又三郎の話」だったと言う。在京中に投稿したものであろうか、童謡「あまの川」一篇が「愛国婦人」9月号に掲載されている。さらに同誌12月号及び翌年1月号に童話「雪渡り」が分載されていいる。
また、「かしわばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」などの少なくとも第一稿がこの秋から冬にかけて書かれている。
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ウーム 宗教といえば、アメリカの福音派やイスラムの原理主義者のように好きになれないのだが・・・
宮沢賢治の場合は、その情熱が実学や童話に向けられたのが良かったようですね。