図書館に予約していた『エクソフォニー』という本を、待つこと5日でゲットしたのです。
著者の『地球にちりばめられて』という小説を読んでいるところであるが、イラチな太子はさっそくこのエッセイ集を予約していたのです。
【エクソフォニー】
多和田葉子著、岩波書店、2003年刊
<「BOOK」データベース>より
自分を包んでいる(縛っている)母語の響きからちょっと外に出てみると、どんな音楽が聞こえはじめるのか。母語の外に出ることにより、言語表現の可能性と不可能性という問題に果敢に迫る、境域の作家多和田葉子の革新的書き下ろしエッセイ集。
<読む前の大使寸評>
著者の『地球にちりばめられて』という小説を読んでいるところであるが、イラチな太子はさっそくこのエッセイ集を予約していたのです。
<図書館予約:(8/31予約、9/05受取)>
rakutenエクソフォニー
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「第一部 母語の外へ出る旅」で世界の20の都市が語られているのだが・・・
そのなかで森鴎外とドイツ語との関わりを、見てみましょう。
p14~15
<ベルリン:植民地の呪縛>
2002年11月末、ベルリンで、ドイツ後期ロマン派の作家ハインリッヒ・フォン・クライストの定例学会があった。クライストは19世紀文学の中では、わたしが特に好きな作家の一人でもある。ハンガリー人の若いドイツ文学研究者の提案で、学会の最後の晩に、クライストの翻訳について、フランス、ハンガリー、日本から人を呼んでパネル・ディスカッションをやることになった。
なぜこの三ヶ国かと言うと、クライストの翻訳は、全集という形ではこの三ヶ国でしか出版されていないからである。たとえば英語のクライスト全集などは存在しない。
不幸にして資金が足りず、日本からは人を呼ぶことができなかったそうで、代わりに専門ではないけれど「地元」の愛読者のわたしが、日本で出た全集とクライスト翻訳史について簡単に発表するように頼まれた。その機会に現在出回っている邦訳だけでなく、鴎外の訳した「聖ドミンゴ島の婚約」と「チリの地震」も読み、その他の文献にも少し目を通してみた。
当時の日本の外国語教育や翻訳事情について読んでいると、鴎外がドイツ語をやったということとわたしたちがドイツ語をやるということの間には大きな違いがあることに気がつく。明治維新直後、日本がヨーロッパから積極的に講師を招いて大学で講義してもらい、直接ヨーロッパの言語、技術、自然科学を取り入れようとしていたことはよく知られている。
今と違って日本語のテキストもほとんどなく、教えられる日本人講師もほとんどいなかったのだろうが、それにしても、たとえば東大医学部の授業はドイツ語だったというから、その意気込みは今とは違う。そっくりまるごと飲み込んで、それを自分の未来にしようという悲愴な覚悟が感じられ、その意気込みには頭が下がる。同時に、「西洋」を相対的に見ることのできる時代、女の子も普通にドイツ語を勉強できる時代に生れたことをありがたく思う。
ちなみにわたしの通っていた都立高校は昔は旧制第二中学校と言って、当時はドイツ語が第一外国語で、もちろん男子校だった。戦後は男女共学になったが、第二外国語の選択肢としてドイツ語は残った。そこでドイツ語を習ったのがわたしのドイツ語との初めての出会いだった。早稲田大学の文学部に入ってからはロシア文学を専攻したが、早稲田の語学研究所でドイツ語を続けることができた。
森鴎外という人は結構アンビヴァレントなところのある人だったかもしれないと改めて感じた。日本がプロイセンを手本に富国強兵の道をまっしぐらに進んでいる時代に、日本近代化のシナリオの登場人物になりきってドイツに留学し、衛生学などを勉強した反面、「文明開化」つまり「西洋化」に対してユーモラスで皮肉な距離を失わなかった。
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『エクソフォニー』2:マルセイユ
『エクソフォニー』1:北京